第82話 帰還命令
演習は四日目も続いた。
神官は来なかった。来なかったが、上町では噂が続いているらしい。バルドが床屋だか酒場だかで、それを拾ってきた。
「学院が神殿と揉めている」「特待生の平民が、神殿に口答えした」。
揉めているつもりはなかった。ただ、鍋を沸かしていただけだ。
西区の赤腹は減り始めていた。ミラの匙と、樽の水と、それと――ミラが東三番通りの子どもたちに教えた、椀の名前。
子どもたちは名前の書かれた自分の椀で、沸かした水だけを飲んだ。他人の椀では飲まなかった。椀を取り違えると、名前が違うから、すぐに分かる。それが思わぬ形で、生水を遠ざけていた。
アンナの母は床を離れた。咳はまだしていた。だが、窓は開けたままになった。
四日目の夕方だった。
中庭に、また人が来た。今度は白い袖ではなかった。
緑の衣。金の髪。尖った耳。
エルフだった。二人。年齢は分からない。ただ、エルフィーナよりは年上に見えた。
彼らは中庭の鍋を見なかった。学生たちも見なかった。石畳をまっすぐに踏んで、エルフィーナのところへ歩いていった。
エルフィーナは鍋の前に立っていた。
この四日のうちに、彼女は枝の術式を書き直し終えていた。五百年の形に、人間の理屈を継ぎ足した炎。それは中庭のどの炎より静かで、まっすぐで、そして消費魔力が一だった。
「――エルフィーナ・ティルナ」
先頭のエルフが言った。古代エルフ語ではなく、この世界の共通語で。中庭の学生たちに聞かせるために、わざわざ。
「元老院長、シルヴァリオン様の命により伝える。……森へ帰還せよ」
中庭が止まった。鍋の音だけがしていた。
「理由は」
エルフィーナが言った。炎は消さなかった。手のひらの上で、細い炎がまっすぐに立ち続けていた。
「人間の学院で、人間の理屈をエルフの術式に混ぜている、と。……元老院は、それを『汚染』と呼んでいる」
「汚染」
「五百年の枝に、人間の三角形を継ぎ足した。それはティルナの家の術式ではない。……森へ戻り、枝を清めよ。それが元老院長の言葉だ」
エルフィーナは、鍋の炎を見た。
枝の根元に引かれた、新しい線。下から上へ。空気の通り道。四日前まで、そこにはなかった線だ。
彼女はしばらく、それを見ていた。
それから、私を見た。
私は隣の鍋の前に立っていた。手のひらには風の炎。魔力三で、五倍。
彼女の目は、もう測っていなかった。測る段階は、とうに過ぎていた。そこにあったのは別のものだった。何なのかは、すぐには分からなかった。分かったのは、ずっとあとだ。
彼女は視線を使者に戻した。
「返事は、明日する」
「今、伺うようにと」
「明日だ」
使者は引かなかった。引かなかったが、彼女も引かなかった。
二人のエルフと、一人のエルフが、鍋の湯気の向こうで向き合っていた。中庭の誰も動かなかった。ヴィルヘルムは教本を抱えたまま。レオポルドは鍋の前で炎を消さずに。アンナは私の袖を握っていた。握る力が、少しずつ強くなっていた。
夕日が中庭に長く差した。石畳に、鍋と人の影が細く伸びた。
エルフィーナの顔に、影が落ちた。私はその顔を見ていた。
百二十年、笑われたことのなかった者の顔。祖父への反抗だと言って森を出た者の顔。
その顔が今、何を決めようとしているのか。
私は鍋の炎を消さなかった。彼女も、消さなかった。
(第二部 第三章 了 / 第四章「古代エルフ語と、決裂の予感」に続く)




