第81話 汚れ仕事に魔法を使うな
中庭の演習は、三日続いた。
初日の朝、石畳の上に並んだ大鍋は五つだった。学院の予算で買えたのが、五つ。鉄の縁が新しくて、まだ油の匂いがした。
二十二名の火魔法の使い手のうち、中庭に来たのは十一名だった。貴族席の半分は来なかった。「下町の水を沸かす演習」を、彼らは演習と認めなかった。来た十一名のうち九名は平民席で、あとは下働きの老人たちが鍋を運んだ。老人たちは演習には出られないが、重いものを運ぶことはできる。
残りの、二名。
エルフィーナと、レオポルドだった。
レオポルドは何も言わずに鍋の前へ歩いていった。立って、風の陣を使った。
誰かに聞いた形跡はなかった。決闘のあと、彼は一人でそれを覚えていたのだ。実技場の床に残った木炭の跡を、おそらく何度も写し取って。彼の炎は風の筒の中で、私のものより太く、まっすぐに立った。魔力二十六の、風の炎だった。
「礼は、言わん」
彼は鍋から目を離さずに言った。鍋の湯気が、整えられた金髪の先を濡らしていた。
「不正だと思っていた。……不正ではなかった。それだけだ」
それだけだった。私も、それ以上は言わなかった。鍋の水が沸くまでには、まだ時間がある。言葉はなくても、炎は二つ並んで立っていた。
沸いた水は樽に移した。樽は荷車に積んで下町へ降ろした。
ミラが東三番通りの路地で待っていた。子どもたちが椀を持って、壁沿いに一列に並んだ。椀の底には、一つずつ名前が書いてある。二十三人、全員の分が。
二日目、大鍋は八つになった。ヴィルヘルムが予算をもう一度通したのだ。「耐熱容器、追加三」。
三日目の昼だった。
中庭に、白い袖が現れた。
神殿の神官だった。三人。白い衣に、胸には資格神の紋章。先頭の、痩せた四十がらみの神官が、大鍋と、炎と、袖をまくった学生たちを、ゆっくりと見渡した。
「――王立魔法学院の、演習と伺いましたが」
声は柔らかかった。柔らかくて、冷たかった。
「学院の魔法士の卵が、下町の汚水を沸かしている、と。……上町で噂になっております」
「汚水ではありません。井戸の水です」
私が言った。神官は私を見た。粗末な上着と、手のひらの炎を、順に。
「あなたが特待生の、レオン殿ですか。……ハルムの村で、井戸に石灰を撒いた、と」
知っていた。ブレナのヘルガの帳簿か、オルデンの村長か、どこかから、神殿はそれを聞いている。
「魔法は神が人に与えたものです。神の御業を、汚れ仕事に使ってはなりません。……水を清めるのは神殿の務めです。聖水があります。祈祷があります。魔法士の卵が、鍋の下で火を焚く仕事ではない」
私は、その言葉が終わるのを待ってから、聞いた。
「聖水は、一瓶いくらですか」
神官の柔らかい顔が、少し固まった。
「……浄めの聖水は、一瓶五百Gです」
「下町の井戸は百を超えます。一つの井戸に、一瓶で足りますか」
「足りません。ですが、それは」
「五万G。……下町の、一年分の麦粥です」
中庭が静かになった。八つの鍋が、それぞれの音で沸いていた。
神官は私を見て、それからヴィルヘルムを見た。
「教授。……学院は神殿と、三千年、共に歩んでまいりました。学院の学生が、神殿の務めを鍋で代替する。それは、学院の方針でしょうか」
ヴィルヘルムは教本を抱えていた。抱えたまま、長いあいだ黙っていた。鍋の湯気が、彼の白い髭の先に小さな水滴を作った。
「学院の方針は教本にある。教本に、『井戸の水を沸かしてはならぬ』とは書いていない」
「教授」
「書いていない」
神官はそれ以上言わなかった。言わないかわりに、私のほうへ一歩寄って、こう言った。
「レオン殿。あなたの資格の刻印は、神殿が行っております。……神殿は、あなたの刻印を見ています。以後も」
白い袖が去っていった。三人分の裾が、石畳の砂を一度だけ巻き上げた。
中庭の鍋が沸いていた。私はその音を聞きながら、板に書いた。
『神殿。聖水、一瓶五百G。……刻印を、見ている』
最後の一行の意味を、私はまだ正確には分かっていなかった。分かったのは、ずっとあとのことだ。




