第80話 魔法で井戸を消毒できないか
その夜、屋根裏で眠れなかった。
梁の低い部屋は昼の熱をまだ吐き出していて、藁布団に寝ていると背中が汗で張りついた。何度か寝返りを打ってから、私は諦めて起き上がり、蝋燭を一本つけて板を膝に載せた。
匙では足りない。石灰は買えない。井戸は百を超える。
板には、それだけがもう書いてある。昼のうちに書いた文字だ。私はその下に、一行を書き足した。
『では、何が、ある』
持っているものを、数えた。
剣士。下水清掃士。雑草判定士。スライム鑑定士。気象観測士。初級魔法士。魔力二十一。火魔法Lv2、風魔法Lv1、気流制御Lv1。
並べて眺めているうちに、火の項で指が止まった。
(……煮沸)
ハルムの村の、井戸端に立てた木札の絵が浮かんだ。鍋と、湯気。子どもと病人には、沸かして冷まして飲ませる。あの札なら、下町の百の井戸に立てられる。板と炭さえあればいい。
だが札を立てたところで、薪がない。下町の薪は高い。夏はなおさら高い。だから皆、生水を飲む。札の前を通って、生水を飲む。
薪がなくても沸かせる方法。
私は板を裏返した。炭の先で、四日前に実技場の床に描いたものを、もう一度描いた。風の陣。炎の煙突。魔力を増やさずに、炎そのものを大きくする陣。
(大鍋の下にこれを置けば、魔力三で五倍の火だ)
頭の中で、井戸端が組み上がっていく。
魔法士が井戸の脇に立つ。石の縁に渡した鉄棒に大鍋をかける。魔力三、五倍の炎。一鍋の水が沸く。沸いた水を冷まして樽に移し、子どもと病人に配る。
魔力三なら、二十一の私で七回。七鍋。一鍋で二十人分なら、百四十人。
一人で、一日、百四十人。
(足りない。だが、ゼロではない)
それに、と私は順位表を思い出した。アンナが十二位。魔力四で風の陣が使える。学院には火魔法の使い手が二十二名いる。二十二名が井戸端に立てば――
計算の途中で、私は立ち上がっていた。
屋根裏の天窓を押し開けると、夏の夜気が流れ込んできた。丘の上まで、下町の乾いた匂いが届いている。遠くに、西区の低い屋根が黒く連なっていた。灯りは、ほとんどない。
翌朝、私は実技場に行った。ヴィルヘルムに会うためだった。
教授は実技場の隅に腰かけて、分厚い教本を開いていた。朝の斜めの光が石床に長く伸びて、その上に木炭の跡がまだ残っている。私が描いた三角形の跡だ。誰も消していなかった。
私は板を差し出した。風の陣。煮沸。井戸端。百四十人。
「魔法で、井戸の水を煮沸します」
ヴィルヘルムは板を受け取った。そして、長いあいだ見ていた。目だけが、図の上を何度も往復していた。
「学院の学生を、下町の井戸端に立たせる、と」
「はい。実技演習の一環として。……魔力の消費は一人三です。的を焼く演習と、変わりません」
「演習は的を焼くものだ。井戸の水を沸かすものではない」
「規定に、『的』の定義はありますか」
教授は教本を閉じた。乾いた音がして、それから私を見た。
「お前は、規定の隙間ばかりを探す」
「規定は教えることを禁じています。学ぶことは禁じていない。……そう教えてくださったのは、教授です」
ヴィルヘルムは答えなかった。かわりに、実技場の高い窓を見上げた。石壁の上のほうに切られた窓で、そこからは丘の下が見える。下町の屋根が、朝の光の中に広がっていた。
「……私は六十年、この丘の上にいる」
彼は、窓を見たまま言った。
「下町の井戸を、見たことがない」
それから教本を脇に抱え、立ち上がった。
「明日、演習は中庭で行う。的は水だ。大鍋を用意しろ。……学院の予算で買う。理由は『実技演習用、耐熱容器』とする」
私は頭を下げた。下げた頭の上に、教授の独り言が落ちてきた。
「異端だ。だが、正しい。……この二つを、私はあと何回、並べて言うことになるのだ」




