↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界資格マスター ~最弱村人から始める資格無双。試験分析EXで世界をアップデートします~  作者: 東雲 諒杏
第三章「初級魔法士試験」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
79/153

第79話 アンナの母


 西区は、東三番通りよりも貧しかった。


 東三番通りには、まだ匂いがあった。路地のどこかで誰かが鍋を火にかけていて、安い出汁と焦げた麦の匂いが石畳の上を漂っている。人の声もあった。怒鳴り声でも、それは生きている者の声だった。

 西区には、それがない。坂を下るにつれて軒が低くなり、壁板が薄くなり、やがて板と板の隙間から他人の家の中が覗けるようになる。匂うのは洗濯屋の出す灰汁と、乾いた土だけだった。風が吹くたびに、その土が足元から舞い上がって、口の中でざらりと鳴った。


 洗濯屋の裏手。二階建ての木骨の家、その一階の一番奥。戸は開いたままになっていた。

 開いているのに、中は暗い。暗いだけではなかった。煙が、部屋いっぱいに満ちていた。


 夏なのに、囲炉裏に火がある。洗濯の湯を沸かすための火だ。煙は出口を探して天井の下を這い、梁にぶつかって跳ね返り、また下りてきて、部屋の中をぐるぐると回っていた。窓は一つきり。それが、閉まっている。


「――母さん!」


 アンナが私の後ろから駆け込んだ。学院からの坂道を、彼女はずっと走り続けていた。息が上がって、革靴の片方は踵が脱げかけていたが、直す余裕もないらしかった。


 囲炉裏の脇に、女が横になっていた。

 痩せている。四十に見えたが、たぶん三十五だろう。下町では、痩せた女は実年齢より五つ上に見える。彼女は咳をしていて、その咳の合間に、腹を押さえていた。丸める背中の角度まで、ハルムの村で見た病人たちと同じだった。


 咳と、赤腹。両方だ。


「……アンナ、学院は……」

「いいから! 母さん、水、飲んでる?」

「のむと、」


 その先は、聞かなくても分かった。飲むと出る。出るから、飲まない。ハルムで、何十回も聞いた言葉だ。村が違っても、言葉だけは同じだった。


 私は窓に手をかけた。歪んだ木枠が渋って、肩で押すようにしてようやく開いた。外の熱い空気が入ってくるのと引き換えに、煙が一筋、のろのろと外へ逃げていく。一筋だけだ。残りはまだ天井で渦を巻いていた。


 囲炉裏を覗くと、洗濯用の大鍋の下で、火が弱く燻っていた。炎は低く、そのかわりに煙だけが多い。薪を一本つまみ上げてみて、理由が分かった。湿っている。安い薪は、たいてい湿っている。


「アンナ。風の陣を使ってくれ」

「え?」

「囲炉裏に。炎の下から上へ――煙突を作るんだ。煙を、窓から出す」


 アンナは一度だけ瞬きをして、それから何も聞かずに囲炉裏の前にしゃがんだ。学院の階段教室で順位表を睨んでいたときの顔ではなかった。手のひらを火に向け、短く詠唱する。風の一語。


 炎が立った。

 細く、まっすぐに、まるで見えない筒の中に押し込まれたように。渦を巻いていた煙がその上に吸い寄せられ、天井を這い、開いた窓から外へ抜けていく。


 部屋の空気が、少しずつ澄んだ。壁の輪郭が見えるようになり、土間の隅に積まれた洗濯物の山が見えるようになった。

 母親の咳が減った。減ったが、腹を押さえた手は離れない。そちらは、空気を変えただけでは治らない。


 大鍋の湯を覗いた。洗濯の湯だ。だが沸いている。沸いた湯は、何に使った湯でも沸いた湯だ。私はそれを椀に取り、土間に置いて冷ました。塩をひとつまみ。アンナの家に塩はあった。ほんの少しだけ、欠けた小皿の底に。


「一口ずつ。何回でもいい」


 アンナが匙を取った。母親の口元に運ぶ手が、わずかに震えている。


「吐かないで、母さん。お願い」


 母親は吐かなかった。二口。三口。喉が鳴る音が、煙の抜けた部屋によく響いた。


 戸口に影が差した。

 ミラだった。籠を胸に抱えて、裾が土で汚れている。東三番通りの子どもたちを女将に任せて、ここまで走ってきたのだろう。彼女は部屋の様子を一目で見て、何も聞かずに囲炉裏の反対側へ回り、母親の枕元に膝を抱えて座った。


 そして、歌った。


 小さな声だった。下町の子守唄らしい。私の知らない歌だ。音を外しているのか、そういう節なのかも分からない。ミラは膝を抱えたまま、同じ旋律を何度も繰り返した。歌いながら、時々、アンナの匙の数を数えた。

「十」

「二十」

 数えて、また歌に戻る。


 母親の目が、少し開いた。


「あんた、誰だい」

「ミラ。食堂の。……アンナの、友達」


 友達。

 アンナが匙を持ったまま、少し泣いた。泣きながら、匙を母親の口へ運び続けた。手は止まらなかった。


 私は部屋の隅に座って、板を開いた。書くことがあった。


『赤腹病。西区、洗濯屋裏。囲炉裏の煙と、湿った薪。窓を開け、風の陣で排煙。湯冷まし、塩。アンナの母、匙の数、五十で、腹の音が止まる』


 書き終えて、母親のステータスを見た。HPの数字は、少しずつ戻っていた。

 この家は、間に合った。


 だが、それだけだ。

 窓の外では、風が乾いた粉を舞い上げていた。土が舞い、その先に西区の井戸があった。石の縁の、低い、蓋のない井戸だ。女が一人、桶を下ろしている。

 私はしばらく、それを見ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。