第79話 アンナの母
西区は、東三番通りよりも貧しかった。
東三番通りには、まだ匂いがあった。路地のどこかで誰かが鍋を火にかけていて、安い出汁と焦げた麦の匂いが石畳の上を漂っている。人の声もあった。怒鳴り声でも、それは生きている者の声だった。
西区には、それがない。坂を下るにつれて軒が低くなり、壁板が薄くなり、やがて板と板の隙間から他人の家の中が覗けるようになる。匂うのは洗濯屋の出す灰汁と、乾いた土だけだった。風が吹くたびに、その土が足元から舞い上がって、口の中でざらりと鳴った。
洗濯屋の裏手。二階建ての木骨の家、その一階の一番奥。戸は開いたままになっていた。
開いているのに、中は暗い。暗いだけではなかった。煙が、部屋いっぱいに満ちていた。
夏なのに、囲炉裏に火がある。洗濯の湯を沸かすための火だ。煙は出口を探して天井の下を這い、梁にぶつかって跳ね返り、また下りてきて、部屋の中をぐるぐると回っていた。窓は一つきり。それが、閉まっている。
「――母さん!」
アンナが私の後ろから駆け込んだ。学院からの坂道を、彼女はずっと走り続けていた。息が上がって、革靴の片方は踵が脱げかけていたが、直す余裕もないらしかった。
囲炉裏の脇に、女が横になっていた。
痩せている。四十に見えたが、たぶん三十五だろう。下町では、痩せた女は実年齢より五つ上に見える。彼女は咳をしていて、その咳の合間に、腹を押さえていた。丸める背中の角度まで、ハルムの村で見た病人たちと同じだった。
咳と、赤腹。両方だ。
「……アンナ、学院は……」
「いいから! 母さん、水、飲んでる?」
「のむと、」
その先は、聞かなくても分かった。飲むと出る。出るから、飲まない。ハルムで、何十回も聞いた言葉だ。村が違っても、言葉だけは同じだった。
私は窓に手をかけた。歪んだ木枠が渋って、肩で押すようにしてようやく開いた。外の熱い空気が入ってくるのと引き換えに、煙が一筋、のろのろと外へ逃げていく。一筋だけだ。残りはまだ天井で渦を巻いていた。
囲炉裏を覗くと、洗濯用の大鍋の下で、火が弱く燻っていた。炎は低く、そのかわりに煙だけが多い。薪を一本つまみ上げてみて、理由が分かった。湿っている。安い薪は、たいてい湿っている。
「アンナ。風の陣を使ってくれ」
「え?」
「囲炉裏に。炎の下から上へ――煙突を作るんだ。煙を、窓から出す」
アンナは一度だけ瞬きをして、それから何も聞かずに囲炉裏の前にしゃがんだ。学院の階段教室で順位表を睨んでいたときの顔ではなかった。手のひらを火に向け、短く詠唱する。風の一語。
炎が立った。
細く、まっすぐに、まるで見えない筒の中に押し込まれたように。渦を巻いていた煙がその上に吸い寄せられ、天井を這い、開いた窓から外へ抜けていく。
部屋の空気が、少しずつ澄んだ。壁の輪郭が見えるようになり、土間の隅に積まれた洗濯物の山が見えるようになった。
母親の咳が減った。減ったが、腹を押さえた手は離れない。そちらは、空気を変えただけでは治らない。
大鍋の湯を覗いた。洗濯の湯だ。だが沸いている。沸いた湯は、何に使った湯でも沸いた湯だ。私はそれを椀に取り、土間に置いて冷ました。塩をひとつまみ。アンナの家に塩はあった。ほんの少しだけ、欠けた小皿の底に。
「一口ずつ。何回でもいい」
アンナが匙を取った。母親の口元に運ぶ手が、わずかに震えている。
「吐かないで、母さん。お願い」
母親は吐かなかった。二口。三口。喉が鳴る音が、煙の抜けた部屋によく響いた。
戸口に影が差した。
ミラだった。籠を胸に抱えて、裾が土で汚れている。東三番通りの子どもたちを女将に任せて、ここまで走ってきたのだろう。彼女は部屋の様子を一目で見て、何も聞かずに囲炉裏の反対側へ回り、母親の枕元に膝を抱えて座った。
そして、歌った。
小さな声だった。下町の子守唄らしい。私の知らない歌だ。音を外しているのか、そういう節なのかも分からない。ミラは膝を抱えたまま、同じ旋律を何度も繰り返した。歌いながら、時々、アンナの匙の数を数えた。
「十」
「二十」
数えて、また歌に戻る。
母親の目が、少し開いた。
「あんた、誰だい」
「ミラ。食堂の。……アンナの、友達」
友達。
アンナが匙を持ったまま、少し泣いた。泣きながら、匙を母親の口へ運び続けた。手は止まらなかった。
私は部屋の隅に座って、板を開いた。書くことがあった。
『赤腹病。西区、洗濯屋裏。囲炉裏の煙と、湿った薪。窓を開け、風の陣で排煙。湯冷まし、塩。アンナの母、匙の数、五十で、腹の音が止まる』
書き終えて、母親のステータスを見た。HPの数字は、少しずつ戻っていた。
この家は、間に合った。
だが、それだけだ。
窓の外では、風が乾いた粉を舞い上げていた。土が舞い、その先に西区の井戸があった。石の縁の、低い、蓋のない井戸だ。女が一人、桶を下ろしている。
私はしばらく、それを見ていた。




