第78話 夏の下町の匂い
夏が、来た。
王都の夏は、乾く。雨が、降らない。丘の上の学院は、風が通って、涼しい。だが、坂を降りて、二重目の門を潜ると、空気が、変わる。
匂いが、変わっていた。
春の下町の匂いは、溝の、湿った、腐った匂いだった。夏の下町は、それが、乾いていた。乾いて、粉になって、風で、舞う。溝の底の、ヘドロが、干上がり、ひび割れ、その上を、蠅が、飛ぶ。
東三番通りは、ましだった。泥食いスライムたちが、乾く前に、食べていた。だが、隣の通りは、違った。私は、路地の入口で、足を止めた。
路地の壁際に、子どもが、座っていた。座って、動かなかった。腹を、押さえていた。
「……赤腹だ」
ミラが、私の隣で、言った。籠を抱えたまま。
「毎年、夏に来るの。溝が乾く頃に。……腹が、水みたいに、流れて、止まらなくなる。三日で、死ぬ子もいる。腹が、赤くなるから、赤腹」
赤腹病。図鑑の、病気の項に、あった。「赤痢に似た、水系感染症。夏季、井戸水の汚染により、流行する」。
夏に、井戸が、汚染される理由を、私は、知っていた。溝が乾き、ヘドロが粉になり、風で、井戸に、入る。それから、雨が降れば、乾いた溝が、一気に、溢れる。ハルムと、同じだ。規模が、三千倍なだけで。
「銀のスライム亭の、周りは?」
「まだ、出てない。……スライムのおかげかな、って、女将さんが言ってた」
「他の通りは」
「西の方が、ひどい。井戸が、三つ、閉められた。閉めても、他に、水がないから、みんな、汲むけど」
私は、路地の、子どもを、見た。図鑑を、向けた。
名前:(不明) 年齢:6歳
HP:9 / 22
九。
私は、路地に、入った。子どもの前に、しゃがんだ。子どもは、私を見なかった。腹を押さえて、目を閉じていた。
「……水は、飲んでるか」
「のむと、でる」
ペーターと、同じ。飲むと、出る。だから、飲まない。飲まないから、死ぬ。
「ミラ。麦粥の、上澄みを、少し。塩を、ひとつまみ。……匙で」
ミラは、何も聞かずに、籠から、椀を出した。彼女は、匙を、持っていた。炊き出しの、匙。彼女はそれで、子どもの口に、一口、運んだ。子どもは、吐き戻さなかった。
「……何回、運ぶの?」
「止まるまで。……百回でも」
ミラは、頷いた。頷いて、二口目を、運んだ。
私は、立ち上がった。路地の、先を、見た。壁際に、もう三人、座っていた。その先の、通りにも。
一人ずつ、匙で、運ぶ。それは、ペーター一人なら、できた。ハルムの、六人なら。だが、この通りに、何人いる。西の通りに。下町全部に。
(……匙では、足りない)
井戸だ。井戸を、止めなければ、匙は、間に合わない。
私は、下水清掃士の木札を、懐の上から、押さえた。石灰。土手。木の札。ハルムでやったこと。だが、この下町の井戸は、百を超える。石灰の袋は、麻袋一つ八十G。百の井戸で、八千G。私の財布には、二百Gも、なかった。
「――ミラ。アンナの家は、どこだ」
「アンナ? ……西区の、洗濯屋の裏。なんで」
「アンナの母さんが、咳をしてる。夏の煙で。……赤腹が、西で出てるなら」
ミラの手が、止まった。それから、また、動いた。三口目。
「……行って。私は、ここ」




