第72話 剣を持たずに
日の出の、広場に、人が、集まっていた。
貴族席の二十名。アンナ。バルド。下働きの、老人たち。誰が知らせたのか、平民寮の、屋根裏の窓からも、顔が、見えた。そして、立会人。ヴィルヘルム。教本を、抱えて。
東に、レオポルドが、立った。絹の上着を、脱いでいた。決闘用の、革の胴着。腰に、杖。魔法士の、正式な、焦点具。彼の顔は、青かった。青くて、目だけが、赤かった。眠っていない顔だった。私と、同じ。
西に、私が、立った。
剣は、ない。杖も、ない。手には、魔光棒が、一本。細い、木の棒。先の石から、白い煙が、細く、立っていた。煙は、北から、南へ、流れていた。
貴族席が、ざわめいた。「杖は?」「あれ、観測所の、煙の棒だろ」「戦う気が、あるのか」。
レオポルドが、私を、見た。
「杖も、持たずに、来たのか。平民」
「杖は、持っていません。……買えませんでした」
本当だった。学院の杖は、安いもので、二千G。麦粥、八十杯分。
レオポルドの顔が、歪んだ。侮辱されたと、思ったらしい。違う。だが、説明する時間は、なかった。
「――双方、位置に。的を、確認」
ヴィルヘルムの声。私の背後、三歩の場所に、蝋の的。レオポルドの背後にも。
「魔法決闘。制限、三分。的の破壊、または、戦闘不能にて、決着。……始め」
レオポルドの杖が、上がった。詠唱、五語。速い。彼は、五語を、一息で、言った。
火球が、来た。
拳より、大きい。私の頭ほどの、赤い塊。東から、西へ、まっすぐに。
私は、魔光棒の煙を、見ていた。煙は、北から南へ、流れている。北風。予測通り。私は、詠唱した。火の言葉ではない。風の、二語。エルフィーナの、流れる風。
私の周りで、空気が、動いた。北から、南へ。目に見えない、風の壁。魔光棒の煙が、その壁に沿って、横に、鋭く、走った。
火球が、壁に、触れた。
触れて――揺れた。
火球の、炎の縁が、南側へ、引き伸ばされた。引き伸ばされて、薄くなった。薄くなった炎は、吸う空気を、失っていた。私の風が、火球の周りの空気を、南へ、流していた。炎は、それを、追いかけるように、南へ、傾いた。傾いて、逸れた。
私の左肩の、三歩、南を、火球が、通り過ぎた。
通り過ぎて、広場の、南の、丘の斜面で、小さく、爆ぜた。
広場が、静まり返った。
レオポルドの、目が、見開かれていた。彼は、外したのだと、思ったらしい。二発目。詠唱。火球。今度は、少し、北に、狙いを、ずらしていた。風を、読んでいる。彼も、馬鹿ではなかった。
だが、私の風は、予測ではなく、術式だった。火球が、壁に触れる。炎が、南へ引かれる。逸れる。今度は、右肩の、二歩、南。
三発目。四発目。
彼の火球は、一発も、私に、届かなかった。一発も、私の背後の、的にも、届かなかった。全部、南の斜面で、爆ぜた。斜面の草が、少し、焦げた。
私は、一発も、撃たなかった。撃つ炎が、なかった。私の魔力は、風の壁で、少しずつ、減っていた。十一。九。七。三分、持つか。
レオポルドの、詠唱が、途切れた。彼は、肩で、息をしていた。二十六の魔力を、四発で、使い切りかけていた。
「――なぜだ」
彼が、言った。杖を、握ったまま。
「なぜ、当たらない。なぜ、撃ってこない。……なぜ、お前は、そんな棒を持って、立っている」
私は、魔光棒の煙を、見た。煙は、まだ、北から南へ、流れていた。
「……風を、読むためです」
「風?」
「あなたの火球は、風で、逸れる。……俺は、風を読んで、風を作った。それだけです」
彼は、私を、見た。青い顔で、赤い目で。
「……そんなものは、教本に、ない」
「はい。ありません」
砂時計の、砂が、落ちた。
「――三分。決着、なし」
ヴィルヘルムの声が、広場に、落ちた。
「引き分け」
広場が、しばらく、静かだった。それから、一つ、拍手が、した。バルドだった。三十年、床を磨いた手の、乾いた音。続いて、アンナ。屋根裏の窓から、下働きの老人たち。貴族席は、拍手しなかった。しなかったが、笑いも、しなかった。
レオポルドは、杖を、下ろした。下ろして、東の、自分の的を、振り返った。的は、無傷だった。彼の的も、私の的も。彼は、しばらく、それを、見ていた。
「……戦わずに、引き分けか」
誰かが、言った。貴族席の、誰かが。
その言葉は、非難のようで、非難ではなかった。ただの、事実の、確認だった。
私は、魔光棒を、下ろした。手は、震えていた。三分間、ずっと。震えたまま、風を、流し続けていた。
東の空で、日が、完全に、昇った。魔光棒の煙が、細く、まっすぐに、南へ、流れていった。




