第58話 レオポルドの水差し
学院の授業は、講堂で、行われた。
貴族席が、前。平民席が、後ろ。試験のときと、同じだった。違うのは、隣に、エルフィーナが、いなかったことだ。彼女は、貴族席の、最前列に、いた。貴族ではない。だが、成績が、貴族席の席順を決めた。最前列の中央が、首席の席だった。
最初の授業は、魔法理論だった。教授は、ヴィルヘルム。白い髭を、胸まで伸ばした老人で、教壇に立つと、教本を開き、教本を、読んだ。一言一句。教本に、書いてあることを、書いてある順に。
私は、それを、写した。写しながら、頭の中で、図鑑の公開教本と、照合した。同じだった。一言一句。三千年前に、書かれたままの、文章。
三日目の、朝だった。
講堂に入ると、私の席の上に、水が、あった。
机の上に、水溜まり。その中に、私の教本が、置かれていた。革の表紙が、濡れて、黒く、変色していた。頁は、貼りついていた。
前の席で、貴族の少年たちが、こちらを、見ていた。レオポルド・フォン・アシュベリーが、水差しを、机の上に置き、笑っていた。
「おっと。平民の机と、間違えた。……あ、平民の机で、合ってたか」
笑い声。
私は、教本を、持ち上げた。水が、滴った。頁を、開こうとした。貼りついて、開かない。
怒りは、あった。だが、それより先に、頭が、別のことを、考え始めていた。前世の、癖だ。私は、目の前の問題を、まず、問題として、見る。
(濡れた紙を、乾かす。……早く、傷めずに)
火に、かざす。駄目だ。革が縮む。頁が、波打つ。風に、当てる。時間がかかる。では――
私は、教本を、机の端に、立てた。頁を、少しずつ、指で、開いた。開いた頁の間に、講堂の、乾いた空気が、入る。空気は、湿った紙から、水を、奪う。奪われた水は、蒸気になって、上へ、抜ける。上へ抜けた分、下から、乾いた空気が、入る。
熱伝導。蒸発。対流。気象観測士の試験で、私が、聞かれてもいないのに、喋ったこと。
「――何をしている」
教壇から、声。ヴィルヘルムが、教本を閉じて、こちらを見ていた。
「教本を、乾かしています」
「授業中だ。乾かすなら、外でやれ」
「……はい」
私は、教本を抱えて、講堂を出た。出るとき、レオポルドの笑い声が、背中に、当たった。
廊下の、窓辺に、教本を、立てた。窓を、開けた。風が、入る。頁が、少しずつ、乾いていく。私は、それを、見ていた。
「……乾かし方が、変だな」
声に、振り向くと、エルフィーナが、いた。廊下の、少し離れた場所に。授業を、抜けてきたらしい。彼女は、私の教本を、見ていた。
「火で乾かせば、早い。魔法士なら、誰でもそうする」
「火は、革を縮めます。……それに、俺の火は、蝋燭なので」
「蝋燭でも、革は縮む」
「だから、風で」
彼女は、教本の頁が、少しずつ、立ち上がっていくのを、見ていた。
「お前、実技で、魔力三で、的を貫いたな」
「はい」
「あれも、風か」
「……いえ。あれは、熱を、一点に」
エルフィーナは、それ以上、何も聞かなかった。聞かないまま、講堂に、戻った。戻る前に、一言だけ、残した。
「教本は、私のを貸す。乾くまで」
彼女は、自分の教本を、窓辺に、置いて、行った。




