第51話 エルフィーナ:森を出た日
百二十年目の誕生日の朝、エルフィーナ・ティルナは、世界樹の根の上に座っていた。
ティル・ナ・シルヴァの大森林の、最も奥。世界樹ユグドラの根が地表に露出し、苔と光に覆われた、エルフの聖域。彼女は子どもの頃から、考え事があると、ここに来た。根は温かく、微かに脈打っている。三千年、そうだったと、祖父は言う。
今朝の根は、いつもより、脈が弱い気がした。
気のせいだと、彼女は思うことにした。思うことにして、視線を上げると、頭上の枝が、去年より、空を多く透かしていた。エルフは、樹の色を読む。彼女は生まれてから百二十年、この樹を見上げてきた。百二十年で、樹は確かに、薄くなった。
「――行くのか」
背後の声に、彼女は振り向かなかった。祖父、シルヴァリオン。元老院長。八百年を生き、三度の大戦を見た男の声は、老いていて、しかし、揺れない。
「行きます」
「人間の資格に、何を学ぶ」
その問いを、彼女は、この十年、何十回も、聞いた。答えは、そのたびに、少しずつ、変わった。今朝の答えは、こうだった。
「人間は、一万二千の名前を、持っています」
「名前?」
「魔法の名前ではありません。……生き方の、名前です。剣士、治癒士、農業士、下水清掃士。私たちは八百年生きて、精霊の名を千知っていますが、人の生き方に名前をつけたことは、一度もありません」
根の上で、彼女は立ち上がった。
「祖父様。私たちの魔法は、完成しています。三千年前から。完成しているから、動かない。……私は、動いているものを、見たい。人間の制度は、歪んでいると、祖父様は言います。歪んでいるということは、まだ、動いているということです」
シルヴァリオンは、長い沈黙の後、こう言った。
「二百年で腐った制度だ。お前は、腐臭を嗅ぎに行く」
「嗅いで、帰ってきます」
「……帰ってこられれば、な」
祖父は、それ以上、止めなかった。止めない代わりに、一つだけ、告げた。
「王都で、資格欄に何も表示されぬ者に会ったら、近づくな。……理由は、言えぬ。言えぬが、近づくな」
彼女は、その言葉の意味を、問わなかった。祖父が「言えぬ」と言うとき、それは本当に言えないのだと、百二十年で知っていた。ただ、心のどこかに、その一文を、置いた。資格欄に、何も表示されぬ者。
森の出口まで、精霊が、三体、ついてきた。風の精霊が、彼女の髪を撫でた。「いってらっしゃい」と、精霊は言わなかった。精霊は、別れの言葉を持たない。ただ、髪を撫でて、去った。
王都行きの馬車に乗るとき、御者が、彼女の耳を見て、目を丸くした。
「エルフのお嬢さんが、王都へ? 珍しい」
「魔法士の資格を、受けに」
「……エルフが、人間の資格を?」
御者は、笑った。悪意はなかった。ただ、可笑しかったのだ。犬が空を飛ぶと言えば、誰でも笑う。
エルフィーナは、笑われることに、慣れていなかった。八百年の家系で、笑われた者は、一人もいなかった。
(これが、動いている、ということか)
馬車が、動き出した。世界樹の影が、森の向こうで、少しずつ、小さくなった。




