第5話 図鑑の最後のページ
「レオン! 雨だ、畑は休みだ!」
夜明け前に外から声がかかり、私はありがたく藁に潜り直した。
雨の日は、畑仕事が休みになる。
納屋の隅で藁を編みながら(冬までに自分の敷布を編めとマルテに言われている)、私は図鑑を眺めて過ごした。指先だけで編み、目線は空中のホログラム。前世で言えば、内職をしながら資格予備校の講義動画を流しているのと同じである。人間、三十五年も続けた習慣は、転生程度では抜けない。
一万二千件の資格一覧は、眺めているだけで一日が溶ける。
・『鍛冶師(D級)』合格率34%
・『宿屋経営士(C級)』合格率25%
・『魔物調理師(C級)』合格率11%
・『ドラゴン調教師(B級)』合格率3%
・『王族家庭教師(A級)』合格率1.2%
・『スライム相撲行司(E級)』合格率81%
(スライム相撲行司……行司の、資格……)
この世界の資格制度を設計した神は、間違いなく私と同類である。「とりあえず資格にしてみた」の痕跡が、リストの随所から匂い立っていた。合格率八十一パーセントというのも実に生々しい。五人に一人は、スライム相撲の行司に落ちるのだ。どういう落ち方なのか、小一時間考えてしまった。
等級はEからSまで。Eは村人や鑑定士見習い、Dが職人、Cが専門職、Bが上級専門職、Aが国家資格、Sは国家戦略資格。図鑑は等級ごとに背表紙の色が変わる仕様で、Sランクのページは虹色に光っていた。『勇者(S級) 合格率0.1%』の項を見つけたときは、さすがに武者震いがした。受ける受けないは別として、最難関というものは、眺めるだけで酒が飲める。
もう一つ、気づいたことがあった。
どの資格にも、「受験者数」の欄がある。そして、その欄が十年連続でゼロの資格が、やたらに多い。
・『雑草判定士(E級)』 受験料:500G 合格率:69%
直近十年の受験者数:0名
・『栄養管理士(C級)』 受験料:15,000G
直近十年の受験者数:0名(王国内保有者 4名)
(……誰も、受けていない)
資格はある。教本もある。試験日も決まっている。ただ、受ける者がいない。
資格神が言っていた言葉が、ここで初めて像を結んだ。十二千種類あるのに、受験者がいる資格は三百もない。番付に載る三百だけが受けられ、残りの一万一千七百は、紙の上で三千年、待っている。
そうやってページを繰り続け、雨音が弱まってきた夕暮れ時。
私は、リストの一番最後に辿り着いた。
No.12000
『???(EX級)』
資格名 :???
受験条件 :???
試験内容 :???
試験日 :???
試験地 :???
合格率 :―
過去の取得者:0名
「……なんだ、これは」
藁を編む手が止まった。
他のどのページとも違う。等級の欄には見たことのない「EX」の文字。そして、それ以外のすべてが黒く塗り潰されている。指で触れても、拡大しても、検索欄に「EX」と打ち込んでも、返ってくるのは沈黙だけだった。
過去の取得者、ゼロ名。
三千年の歴史で、ゼロ。
(合格率0.1%の勇者ですら、六十年前に取得者がいた。だがこれは、ゼロ。試験日すら不明。つまり――試験そのものが、まだ一度も行われていない?)
背筋を、ぞわりと何かが駆け上がった。恐怖ではない。資格マニアなら全員知っている、あの感覚だ。願書の出し方すら分からない試験を前にしたときの、あの、腹の底が浮くような。
「EX000……仮に、そう呼ぼう」
図鑑の整理番号の並びからすれば、正式には「No.12000」だが、等級EXの唯一の枠。私は勝手に、心の中でそう名付けた。
ついでに、受験条件の欄を長押ししてみた。普通のページなら、ここを押せば「必要な前提資格」が木の形に展開される。『魔物調理師』を押せば、調理士と衛生管理士が枝として生える。
EX級のページは、押しても何も生えなかった。生えない代わりに、画面の縁が一度だけ、呼吸のように明滅した。
それだけだった。
「また宙を見てるのかい」
戸口から、マルテの声がした。
「あんた、ときどき憑かれた顔をするよ。今みたいな」
「……本を読んでいるんです。目に見えない本を」
「ふん」
彼女は信じも疑いもせず、濡れた薪を囲炉裏の端に立てかけた。
「字が読めるのかい、あんた」
「読めます」
「そりゃいい。……去年の行商に、番付の写しを十Gで売られてね。村で読める者がいなくて、結局、村長の壁に貼ったまま誰も読んでない」
十Gで、村は読めない紙を買ったのだ。
十Gあれば鶏が一羽買えると、後でリーゼに聞いた。読めない紙に鶏一羽。笑い話のようで、笑えなかった。字が読めないという一点で、この村は、王都で今年どの試験が開かれ、どの資格の値が上がったのかを知る手立てを、鶏一羽ぶん取り落としている。番付の紙は壁に貼られたまま、一年、誰にも読まれずに日に焼けたのだ。
「あとで読みます」
「頼むよ。……あの紙が何だったのか、死ぬまでに一度くらい、知っておきたい」
咳が一つ、煙の中に落ちた。
「おーい、レオン! 雨あがったぞ、水路見に行くぞ!」
外から村の男の声。私は図鑑を閉じ――閉じる寸前、もう一度だけ、黒塗りのページを見た。
一万一千九百九十九件の資格には、すべて「取り方」が書いてある。道筋が示されている。それがこの世界の資格制度の思想なのだと、村人E級の勉強で学んだばかりだった。資格とは、道標なのだと。
なのに最後の一件だけ、道標がない。
(お前だけ、なんで隠れてるんだ)
答えない黒塗りのページに、私は妙な既視感を覚えていた。試験会場の隅で、誰とも目を合わせずに座っていた、前世の自分に少し似ていた。
「まあいい。どうせ全部取るんだ。順番から言えば、お前は一万二千番目だ」
全部取る。
口に出してから、自分で驚いた。いつの間にそんな予定になったのか。だが訂正する気は、不思議と起きなかった。
◇◇◇
納屋を出ると、雨上がりの空に、大きな虹がかかっていた。その根元のあたり、遥か遠くに、雲を突くような巨大な樹の影がひとつ、霞んで見えた。
水路の見回りに出た男衆が、泥の中で立ち止まって、同じ方を見ている。
「マルテさん。あの樹、なんですか」
「世界樹だよ。ユグドラの大樹。この大陸の真ん中に、神代から生えてるのさ」
マルテは軒先で咳をひとつして、それから、虹の方へ目を細めた。
「……あたしが小さい頃は、もっと青々してたけどねえ」




