第37話 無人の村
王都への街道は、五日。
その二日目の午後、荷馬車は、村を一つ通った。
通った、というのは正確ではない。村はあった。藁葺きの家が二十ほど、街道沿いに並んでいた。だが、煙が、一本も上がっていなかった。畑は草に埋もれ、柵は倒れ、家々の戸は、開いたままか、外れたままだった。
「……止めよう」
ヨナスが、手綱を引いた。彼は御者台から降りず、村を眺めた。
「去年の秋、ここを通ったときは、人がいた。子どもが、荷馬車に手を振ってた」
私は荷台から降り、村の中へ、歩いた。
匂いは、なかった。腐臭も、煙の匂いも。ただ、静かだった。家の中を覗くと、囲炉裏の灰が固まり、鍋がそのまま掛かっていた。寝床に、毛布が畳まれていた。逃げた、のではない。逃げる者は、毛布を持っていく。
村の中央に、井戸があった。
その井戸の縁に、私は立ち、中を覗いた。
水面に、犬が、浮いていた。
黒く膨れた、犬の死骸。いつからそこにいるのか、分からない。水は、その周りで、濁っていた。
村の裏手に、土の盛り上がりが、並んでいた。十、二十――数えるのを、途中でやめた。小さい盛り上がりが、多かった。
「疫病だ」
いつの間にか、ヨナスが隣に立っていた。
「儂が聞いた噂じゃ、冬の初めに、腹下しが回ったそうだ。最初は子どもが。次に年寄りが。治癒士を呼ぶ金は、この村にはねえ。神殿の祈祷師を呼んだが、間に合わなかった。……生き残った者は、春になる前に、王都か、どこかへ、出ていった」
腹下し。冬。子どもが先。
ハルムの、去年の春の、六人の子ども。オルデンの、井戸を半周する溝。
私は、荷馬車に戻り、麻袋を担いで、井戸に戻った。ヨナスが、途中で買い足させてくれた、石灰である。
「兄ちゃん。……何を」
「石灰を、撒きます。井戸の周りと、溝に」
「誰もいねえぞ。撒いて、どうなる」
「……分かりません」
私は麻袋の口を開け、井戸の周りに、白い粉を撒いた。溝に撒いた。裏手の、土の盛り上がりの周りにも、撒いた。ヨナスは、黙って、それを見ていた。
「意味、あるのか」
撒き終えた私に、彼は、静かに聞いた。責める声ではなかった。本当に、知りたがっている声だった。
「この街道は、王都に続いています。誰かが、この村で、水を汲むかもしれない。旅の人か、逃げた人が戻ってくるか。その人が、飲む水が、少しだけ、ましになる。……それだけです」
それだけ。四十年無資格で溝を守ってきたダグなら、たぶん、同じことをした。ヒルダも。あの二人は、意味を問わない。問う前に、手が動く。私は、まだ、問うてから動く。問う分だけ、遅い。
井戸の縁に、私は、木の札を立てた。ハルムと同じ、鍋と湯気の絵。字は、読める者がいるかどうか、分からなかった。それでも、書いた。
『この井戸の水は、沸かして飲むこと。犬が浮いていた。――下水清掃士 レオン』
名前を、書いた。ヘルガの言ったとおりに。
荷馬車に戻り、無人の村を、後にした。荷台の上で、私は図鑑を開き、『公衆衛生士(A級)』の頁を見た。受験料八十万G。合格率二・九パーセント。
備考欄に、一行。
『地方における公衆衛生士の配置数:0名(王都上町を除く)』
ゼロ。この街道沿いの、どの村にも、この資格の持ち主は、一人もいない。だから、井戸に犬が浮いても、誰も気づかない。気づいても、判定できない。判定できても、金がない。
私は図鑑を閉じ、遠くの世界樹を見た。今日は、雲がかかっていて、輪郭が、見えなかった。




