第31話 街道と、世界樹の話
狼煙は、丘の稜線の向こうで、まだ立っていた。
ブレナからハルムへの街道は、川沿いに二日。その途中、丘を一つ越える。狼煙は、ちょうどその丘の裏側から上がっている。ヨナスは荷馬車を止めず、しかし速度を落とし、御者台で煙を睨んだまま、独り言のように言った。
「あれはな、山賊の狼煙じゃねえ。山賊が出たのを見た誰かが、次の村に知らせる狼煙だ。……つまり、もう誰か襲われた後だ」
「引き返しますか」
「引き返してブレナで何日待つ。塩は腐らねえが、儂の懐は腐る。それに、この荷には、ハルムの春の種籾が載ってる。これが届かなきゃ、お前の村は、今年の豆を蒔けねえ」
種籾。荷台の奥の、麻袋三つ。ハルムの寄り合いで、村長が「今年は領主町の種屋から良い種を」と決めた、村の共同の買い物だった。
私は荷台で、木剣の柄を握った。手は、今朝もまだ震えている。剣士D級の木札は懐にあるが、木札は剣を振ってはくれない。
「まあ、丘を越えるまでは半日ある。……気を紛らわせに、一つ、話してやろう」
ヨナスは鞭を軽く鳴らし、荷馬車を進めた。街道の左手、遠くの空に、あの巨大な影がある。雲を突く、樹の影。ハルムの納屋から見たときより、少しだけ大きい。
「世界樹の話だ。ユグドラの大樹。大陸の真ん中に生えてて、神様が資格を作った日から、あそこにあるって言われてる。……儂は行商で二十年、この街道を往復してるが、あの樹の色をな、毎年、見てる」
「色、ですか」
「二十年前は、春になりゃ、あそこが緑の壁みたいに見えた。ここからでもだ。今は――見てみろ」
私は目を凝らした。遠すぎて、葉の一枚一枚は見えない。だが、樹の影の輪郭が、なんとなく、薄い。緑というより、灰緑。ところどころ、空が透けている気がした。
「今年は、葉が少ない。去年より、な。去年は一昨年より少なかった。王都の神殿は『神の試練』だと言ってるそうだ。何の試練だか、誰も説明しねえ」
ヨナスは、煙草の代わりに、乾した木の根を噛んだ。
「儂は学がねえ。だが二十年、同じ道を往復してると、分かることがある。あの樹が薄くなり始めたのと、ブレナの領主庁の屋根が崩れ始めたのと、街道に山賊が増え始めたのは、だいたい同じ頃だ。……関係あるのかねえ」
関係。前世の私なら、「相関と因果は違う」と言っただろう。だが、この世界の因果は、まだ何も分かっていない。図鑑にも、世界樹の項目は、たった三行しかなかった。
『世界樹ユグドラ。大陸中央に位置する神代の巨樹。資格神アーカイブスの座とされる。備考:近年、落葉の増加が観測されている』
観測されている。それだけだった。
「兄ちゃんは、王都に行くんだろ。ガルムの旦那が紹介状まで書いた」
「……村に帰ってから、考えます」
「そうかい。まあ、王都に行くなら、一度は世界樹の根元を見てこい。あそこの根元にゃ、神殿がある。儂は行ったことがねえが、行った奴は、みんな同じことを言う。『樹が、人を見てる気がした』ってな」
樹が、人を見ている。
白い空間の、光の塊の、呆れ顔を思い出した。あの神様は、今、あの樹の上から、私を見ているのだろうか。行き倒れて、笑われて、四つ資格を取って、山賊の狼煙に向かって進んでいる、社交性四の元会社員を。
(見ているなら、少しは手伝ってくれ)
念じてみたが、返事はなかった。代わりに、荷馬車が丘の登りにかかり、車輪が軋んだ。
狼煙は、もう、目の前だった。




