第30話 紹介状と狼煙
ブレナを発つ朝、ガルムが、荷馬車宿の前に立っていた。
朝靄の中、六尺半の影が、腕を組んで待っていた。ヨナスが御者台で「おっかねえのが来た」と身を縮めた。
「レオン。少しいいか」
私は荷台から降りた。ガルムは懐から、封をした羊皮紙を出した。
「紹介状だ。王都の冒険者ギルド本部、受付のマーゴに渡せ。俺の名を出せば、登録の列に並ばずに済む。……列は、三日待ちだ。王都では、何でも列だ」
「王都に、行くと決めたわけでは」
「決めろ」
即答だった。
「ブレナは終わる。秋の試験はない。ハルムに帰って、井戸を守るのもいい。それはお前の村にとっては、大きなことだ。だが――」
彼は、私の腰の木剣の柄頭を見た。不揃いな組紐が、朝靄に湿っている。
「お前は、二つ受ける奴だ。三つ受けると言った奴だ。……そういう奴が居るべき場所は、試験が開かれる場所だ。そこにしか、お前の受ける試験はない」
私は羊皮紙を受け取った。封蝋に、狼の紋章が押してあった。獣人の彼が、自分で彫ったものだと、ずっと後になって知った。
「ガルムさん。一つ、聞いてもいいですか」
「言え」
「騎士資格の受験資格の一行。……あれは、いつからあるんですか」
「分からん。俺が読んだときには、あった。俺の親父が読んだときにも、あったそうだ」
彼は、朝靄の向こうの、崩れた領主庁の屋根を見た。
「三千年前に、神様が資格を作ったとき、あの一行があったとは、俺には思えん。だが、誰がいつ足したのかは、誰も知らん。……お前の図鑑には、載ってないのか」
図鑑。私は驚いた。ガルムは、私が空中に開く光の板を、試験場で見ていたらしい。
「載っていません。要項の現行版だけで、改訂の履歴は、ありません」
「そうか」
それだけだった。だが、その「そうか」を、私は忘れなかった。図鑑に載っていないことが、この世界には、たくさんある。図鑑は、三千年分の「今の姿」しか映さない。誰がどこに札を掛けたかは、映さないのだ。
「――行け。王都で、また会う。俺は来月には本部にいる」
ガルムは、私の肩を、一度だけ叩いた。牛より重い掌だった。
荷馬車が、門を出る。石畳が土に変わり、車輪の音が柔らかくなる。ブレナの灰色の壁が、朝靄の中に小さくなっていく。
私は荷台の上で、木札を二枚、並べて眺めた。剣士D級。下水清掃士E級。それから、狼の封蝋の紹介状と、答案の問十と、棚卸しの板。
村へ帰る。まず、村へ帰る。広場で、もう一度、光を見せる約束がある。隣村の井戸を見る約束がある。ペーターに、剣を見せる約束がある。
その先のことは、その先で考える。
(……と、思っていたのだが)
「――兄ちゃん。あれ、見ろ」
ヨナスの声が、低くなった。
彼の鞭の先が、街道の東、ハルムへ向かう丘の稜線を指していた。稜線の向こうに、細い煙が、一本、まっすぐに立っていた。朝靄とは違う、黒い煙。
「狼煙だ。……山賊だ。街道の、ハルムとの間で」
ヨナスは荷台を振り返った。塩の樽、鍬、託送の荷。そして、村へ帰る道は、あの煙の下を通る。
「兄ちゃん。剣士様になったばかりで悪いが――護衛代わりって、言ったよな。儂は」
私は木剣の柄を握った。手は、震えていた。今日も、また。
だが、握った。
「……当たりませんよ、俺の剣は」
「知ってる。試験場で見てた。当たらねえのに、負けねえんだろ」
荷馬車は、煙に向かって、街道を進んだ。




