第29話 試験を開けない領主庁
ブレナを発つ前日、私は領主庁に、合格証の正式登録を受けに行った。
登録は、二階の一室で行われた。屋根の崩れた一角の、真下の部屋である。雨漏りの染みが天井に広がり、床には桶が置いてあった。ヘルガが、登録簿と、封蝋と、印章を並べて座っていた。書記の若者はいなかった。
「登録は私一人でやる。書記は、先月で解雇になった」
彼女は封蝋を溶かしながら、事務的に言った。
「レオン。お前は秋にも受けると言ったな。次は何だ」
「井戸管理士D級と、それから――まだ決めていませんが、王都に行ければ、魔法士を」
「そうか。……秋の試験はな、たぶん、ない」
封蝋の匂いが、部屋に満ちた。
「領主庁の財政が、持たん。今年の春の試験を開くのに、領主様は、王都の商会から金を借りた。受験料は全部、その返済に消える。秋の試験を開く金が、ない。来年の春も、たぶんない」
闇予備校の客引きの、最後の一言が蘇った。「秋があれば、だがな」。
「……試験を、開けない?」
「そうだ。試験官の給金、会場の維持、審査官の派遣。全部、金だ。王都の資格院は、地方の試験には一銅貨も出さん。受験料の三割を、上納金として取るだけだ」
ヘルガの手は、封蝋を押す動作を、一度も乱さなかった。乱さないまま、彼女は続けた。
「ヴィムの巡回も、来年から半分になる。あいつの区には、審査官が来ない村が二十あるそうだ。それが、四十になる。……分かるか。受けたい者がいて、教える者がいて、資格そのものは三千年前から図鑑にある。なのに、試験が開かれない」
彼女は、押し終えた登録簿を閉じた。
「学ぶ機会そのものが、金で、消える」
雨漏りの桶に、水滴が一つ、落ちた。晴れているのに。屋根裏に溜まった昨日の雨が、まだ落ちてきているのだ。
私は、木札を握った。剣士D級。下水清掃士E級。村の四千Gで買った、二枚の機会。この二枚が、来年は、この町の誰にも売られない。ハルムの牧夫のノルは、来年、判定士を受けると言っていた。彼が受ける試験は、開かれない。
「ヘルガさんは、どうなるんです」
「王都だ。資格院の下級試験官に、空きがある。給金は今の半分だが、娘がいる。……娘は、まだ十だ。王都には、学校がある。上町にだけだが」
彼女は、それを、天気の話のように言った。
「ガルムも、王都の冒険者ギルド本部に移る。ブレナ支部は、閉じる。……この町は、試験を開けない町になる。試験を開けない町から、試験に関わる者が、順に出ていく。そういう順番だ」
私は、何も言えなかった。前世でも、似た話を聞いたことがある。過疎の町から、まず学校が消え、次に医者が消え、それから若者が消える。この世界では、それが「試験」から始まる。
「……レオン」
ヘルガが、登録簿の上に、一枚の紙を置いた。
「お前の筆記の答案だ。問十。持っていけ。私は王都で、これを、上の者に見せてやりたかった。教本以外の答えを書く受験生がいる、と。……だが、答案は本人のものだ」
私は、紙を受け取った。自分の字で、酸化と塩分と皮膜について書いた、三倍の長さの答案。
「王都に行くなら、資格院の試験場で、また会うかもしれん。私は下級試験官だ。お前の受験票を、また、検めることになるだろう」
彼女は、初めて、はっきりと、笑った。
「そのときも、二つ受けるのか」
「……たぶん、三つ」
ヘルガは、声を出して笑った。二十年、この崩れかけた領主庁で答案を読んできた女の、たぶん、今年最初の笑い声だった。




