第3話 集会所の笑い声
ハルム村の集会所は、村で唯一、五十人が屋根の下に入れる建物である。とはいえ壁は隙間だらけで、夜の集会には全員が自前の毛布を持ち込む。
その晩は、月に一度の寄り合いだった。
議題は三つ。冬の薪の割り当て、共同畑の草取り当番、それから領主様への納め物が今年から麦一袋分増えるという報せ。三つ目で、集会所の空気が重くなった。
「去年と同じだけ納めて、今年は一袋多い。……収穫は増えとらんがな」
鍛冶屋のヨルクが呟き、誰も反論しなかった。領主町ブレナでは輸入小麦が安く流れ込んでいて、麦の値が落ちている。値が落ちた分、納め物は量で取られる。行商人が持ってきた話が、そのままこの村の冬の薪を一束削る。
「オルデンは、去年、鍛冶士を一人入れたそうだ」
誰かが言った。隣村の名である。
「領主町から来た男を、村が三年分の麦で雇った。……あっちは鍬の修理に町まで下りなくて済む」
「うちは、何もないな」
「村人E級が百二十人だ。それで三千年やってきた」
笑い声が起きた。自分たちを笑う種類の笑いだった。
議題が一巡し、村長のオルバンが「他に何かある者は」と、儀礼として口にした、その時である。
「あります」
私は手を挙げて、立ち上がった。
五十の顔が、一斉にこちらを向いた。行き倒れの少年が寄り合いで発言する。それだけで、集会所の空気が「なんだなんだ」とざわめいた。
心臓が耳の裏で鳴っている。社交性1の身体は正直で、膝の裏に汗が滲んだ。それでも私は、昨夜三十回組み立て直した台詞を、順番に押し出した。
「春に、領主町ブレナで剣士資格の試験があると聞きました。私は、それを受けたいと思います。ついては……試験までの間、畑仕事の合間に、鍛錬の時間をいただけないでしょうか」
一拍の沈黙。
それから、集会所が、どっと沸いた。
「剣士だと」「あの行き倒れが?」「棒切れより細い腕で!」
誰かが私の腕を掴んで持ち上げ、「見ろ、麦の穂だ」と言った。笑いの第二波が来た。毛布にくるまった子どもまで笑っている。
悪意のある笑いではなかった。それが余計に応えた。彼らは本気で、心の底から、可笑しかったのだ。犬が「明日から空を飛びます」と宣言したら、誰だって笑う。
前世の私は、この種の笑いから逃げるために、十一年かけて壁に額を並べた。逃げ切った先で、フグに負けた。
だから、座らなかった。
「レオンよ」
笑いが収まるのを待って、村長オルバンが口を開いた。六十年この村で生きてきた男の、諭すような、疲れたような声だった。
「悪いことは言わん。剣士資格の受験料は三千Gだ。うちの村の男が、一年畑で働いて、手元に残るのがいくらか知っとるか。……それで五人に四人が落ちる。落ちれば三千Gはただの紙切れにもならん。割に合わん賭けだ」
「はい。ですが」
「それにな」
村長は、囲炉裏の火を見た。
「受かったとして、剣士がどうやって食う。魔物を狩るか。護衛をやるか。どっちも命がいくつあっても足らん仕事だ。わしらは先祖代々、村人として畑を耕して生きてきた。派手じゃないが、死なん。……お前ももうすぐ十五の儀だろう。村人E級を取って、マルテの畑を継げばいい。それが一番、コスパがいい」
コスパ。
その言葉が、この藁葺き屋根の下でも使われていることに、私は妙な感慨を覚えた。王都の資格院が毎年発行する二枚の番付は、行商人の口づてで辺境の語彙にまで染み込み、六十年生きた村長の口から、外来語のように滑り出てくる。
挑戦は、割に合わない。この世界の常識は、前世の居酒屋で聞いた台詞と、一言一句同じだった。
村長は悪い人ではない。むしろ、この村の誰よりも村の勘定を背負っている。だから彼は、損をしない道だけを若い者に教える。三千年そうしてきた国の、いちばん末端の形がそれだった。
◇◇◇
「――バカじゃないの」
解散後、集会所の外で待ち構えていたのはリーゼだった。腕を組み、白い息を吐きながら、私を睨み上げてくる。
「三千Gよ。三千G。ペーターの冬の上着が三年買えるわよ。それを紙切れ一枚に賭けるわけ? 落ちたらどうすんの」
「五回落ちても、六回目に受かれば取り返せる」
「受験料はどこから湧いてくんのよ!」
「……それは、これから考える」
リーゼは天を仰いだ。月に向かって、心底呆れた息を吐いた。
「あんたね。命拾いしたばっかりの分際で、なんでわざわざ、笑われることを選ぶのよ」
なんで、か。
私は少し考えて、考えて、結局、本当のことしか出てこなかった。
「合格率十八パーセントって書いてあったから」
「は?」
「五人に一人しか受からないなら……受かったら、嬉しいだろ」
リーゼは、しばらく私の顔を眺めていた。頭のおかしい人間を見る目、というのはああいう目のことを言うのだと思う。やがて彼女はくるりと背を向け、肩越しに吐き捨てた。
「勝手にすれば。……ただし、畑の仕事はサボんないでよね。あんたの飯、うちの村が出してんだから」
足音が遠ざかる。途中で一度止まって、こう付け加えられた。
「……上着の話は、忘れて。あんたに言うことじゃなかった」
それから、足音は遠ざかった。
私は集会所の壁にもたれ、夜空を見上げた。前世より星が多い。呆れるほど多い。
笑われた。真正面から、五十人に。
前世の私なら、今夜のことを三年は引きずっただろう。布団の中で笑い声を反芻して、二度と寄り合いで口を開かなかったはずだ。
だが不思議なことに、胸の中で音を立てているのは、羞恥ではなかった。
空中に図鑑を呼び出す。『剣士(D級)』のページ。合格率18%。試験地、領主町ブレナ。春。
(受かったら、この村の人たちは、どんな顔をするだろうな)
ステータス画面の隅で、見たことのない数字が、ひとつ動いた。
挑戦力:35 → 36
画面を閉じたとき、集会所の戸口に、人影が立っていた。
マルテだった。毛布を抱えて、咳を一つして、それから、こちらを見ずに言った。
「……薪を割れ。十日分」
「え」
「割った分だけ、死んだ夫の木剣を貸してやる。……納屋の梁に、二十年吊るしたままだ」
彼女は戸口から出ていった。
二十年吊るされた木剣の話を、私はそれまで、一度も聞いたことがなかった。




