第2話 囲炉裏の煙と、カビたパン
煙で目が覚めた。
喉の奥がいがらっぽい。寝返りを打つと、藁を詰めた敷布がかさりと鳴り、土の匂いが立った。天井――というより、屋根の裏側がすぐそこにある。藁葺きの隙間から朝の光が針のように差し、その光の帯の中を、囲炉裏の煙が層になって漂っていた。
ここは村はずれの寡婦マルテの家である。柵の外で行き倒れていた記憶喪失の少年(ということに、私はなっている)を、この村――辺境の見習い村ハルムは、ひとまず彼女の納屋の隅に置いてくれた。人口百二十人の村の、精一杯の親切だった。
身元を問われて「覚えていません」と答えたとき、村長は半日考えて、こう裁定した。「春の十五の儀までに思い出さねば、この村の子として数える」。嘘をつくのは心苦しかったが、「前世は日本の派遣社員で、フグで死にました」と説明して通じる世界ではない。
「レオン。起きたなら火の番」
マルテの嗄れた声。彼女は五十をいくつか過ぎたはずだが、この世界では立派な老女として扱われている。煙のせいだ、と私は三日目にして確信していた。
囲炉裏には煙突がない。煮炊きの煙は屋根の藁の隙間から抜けるのを気長に待つだけで、それまでは部屋中に満ちる。マルテは一晩中、乾いた咳をしていた。
(慢性気管支炎。前世なら、換気の一工夫で半分は防げる)
医師免許は持っている。二年しか使わなかった免許だ。だが、その二年で、私はこういう咳をする患者を何十人も診た。喫煙歴を聞き、聴診器を当て、レントゲンを頼み、上級医に鑑別を挙げさせられた。挙げられずに立たされた朝もあった。
その知識だけが、今も告げてくる。この煙を毎日吸えば、肺はやられる。
「マルテさん。煙を外に出す穴を、屋根に一つ開けるだけで」
「開けたら、雨が入る」
返事は早かった。
「冬は、煙のほうがまだ暖かい」
反論できなかった。彼女にとって、煙は病気の原因ではなく、薪を節約する仲間だった。知識は、相手の暮らしの事情に負ける。前世の私は、それを病棟で何度も見ていたはずだった。
朝食は、黒パンと薄い豆のスープだった。
黒パンは、拳ほどの塊を家族の人数で切り分ける。マルテが私の分を切ってくれたとき、断面の隅に、青緑色の点が見えた。
「あの、マルテさん。ここ、カビが」
「削って食え」
当然のように言われた。マルテは自分のパンの縁を小刀で薄く削ぎ、削いだ屑も囲炉裏の灰の上で炙って口に入れた。捨てるという選択肢は、この家には存在しなかった。
スープを啜る。豆と、クズ野菜の切れ端。塩は貴重品なので、味は「お湯の記憶」程度である。腹の底が、食べたのに食べた気がしないと文句を言っている。
(たんぱく質もビタミンも慢性的に足りていない。この村の子どもの背が全体的に低いのは、たぶん遺伝じゃない)
◇◇◇
食後、水汲みを言いつけられた。木桶を二つ提げて、村の中央の井戸へ向かう。
朝の村は、静かに、忙しい。男たちは夜明け前から畑に出ていて、女たちが井戸端に集まる。私は列の後ろに並び、順番を待ちながら、ずっと気になっていたものを改めて眺めた。
井戸から十歩と離れていない場所に、浅い溝が掘られている。各家から出た汚水――洗い物の水も、家畜の小屋を流した水も、それ以外のもっと悪いものも――が、その溝をゆるゆると流れ、村はずれの窪地に溜まる仕組みだ。仕組み、と呼べるならば。
雨が降れば、溝は溢れる。溢れた水がどこへ染みるかは、考えたくもなかった。井戸のすぐ横なのだ。
井戸端は、村でいちばん話が集まる場所でもあった。
「隣のオルデンに、行商が来たらしいよ。番付を貼っていったって」
「番付? 年収の?」
「それと、コスパのほう。……一番が税理士だってさ」
「税理士って、何するんだい」
「知らないよ。字が読める人の仕事だろ」
私は桶を抱えたまま、黙ってそれを聞いていた。王都の資格院が年に一度出す「職業別年収番付」と「コスパ番付」は、行商人の口を通って、こんな辺境の井戸端の語彙にまで染み込んでいる。資格の名前は届く。資格の中身は届かない。
「なあ、リーゼ。去年、トマスんとこの子が死んだのって」
列の前で、女たちが世間話をしている。その中に、私と同じ年頃の少女が一人いた。亜麻色の髪を無造作に括った、気の強そうな目の娘。リーゼ。マルテの家の隣に住む幼馴染――ということに、村の中ではなっている。
「腹下しでしょ。夏に、水みたいなのがずっと続いて」
リーゼは桶に水を汲みながら、なんでもないことのように答えた。
「今年もペーターがちょっと怪しいのよね。あの子、すぐ生水飲むから」
ペーターは彼女の弟だ。七つになる。
腹下し。夏。水様便。井戸の横の汚水溝。
私の頭の中で、前世の教科書が音を立ててページをめくった。経口感染。糞口経路。この村では、子どもが下痢で死ぬことが、「そういうこともある」で済まされている。
「あのさ、リーゼ。水、飲む前に一度沸かしたほうが」
「は?」
振り向いたリーゼの目が、露骨に胡乱になった。
「薪がいくらすると思ってんの。うちは先祖代々この水で生きてきたの。あんた、行き倒れてた分際で、変なことばっかり言うのね」
ぐうの音も出ない。行き倒れてた分際なのは事実である。
ついでに言えば、彼女はその「先祖代々」の水を、弟に飲ませたくないとも思っている。だから話題にした。ただ、薪を増やす余裕がないので、言い方が怒る形になる。それが分かるのに十数秒かかった。社交性1の処理速度である。
水桶を提げて戻る道すがら、私は空中に指を滑らせ、こっそり資格図鑑を開いた。誰にも見えないホログラムのページが、ぱらぱらとめくれる。
この三日間、私は暇さえあればこれを読んでいた。一万二千件の資格の一覧。それは同時に、この世界の仕事と暮らしの一覧でもあった。
検索欄に、思いつく言葉を入れてみる。
【検索結果:「水」「衛生」】
・『下水清掃士(E級)』 受験料:500G 合格率:78%
――下水路・汚水溜の清掃、石灰による消毒の基礎。
・『井戸管理士(D級)』 受験料:2,800G 合格率:41%
・『衛生管理士(C級)』 受験料:15,000G 合格率:22%
・『公衆衛生士(A級)』 受験料:800,000G 合格率:2.9%
(……あるじゃないか)
あるのだ。この世界には、ちゃんとある。汚水を処理する知識も、井戸を守る技術も、資格として体系化されて、そこに。
ただ、この村には、その資格を持つ者が一人もいないだけで。
図鑑を閉じかけて、指が止まった。ついでに検索したもう一つの言葉が、画面に光っていた。
【検索結果:「剣士」】
・『剣士(D級)』 受験料:3,000G
試験地:領主町ブレナ(春・秋) 合格率:18%
――剣術の基礎技能を王国が認定する。冒険者・護衛業の登竜門。
合格率、十八パーセント。
五人受けて四人落ちる。前世の感覚で言えば、行政書士より少し厳しく、社労士より少し優しい、実に「ちょうどいい」数字だった。
私は井戸端の方を振り返った。汚水溝と井戸。カビたパン。煙る囲炉裏。腹を下す子ども。
この世界で生きていく。そのために、まず何が要るか。
答えは前世と同じだった。肩書きだ。行き倒れの記憶喪失少年の言葉は誰も聞かないが、「資格持ち」の言葉なら、あるいは。
それに――と、私は画面の「合格率:18%」の文字を、そっと指でなぞった。
久しぶりに、心臓が良い音を立てていた。試験会場に向かう朝の、あの音だった。
◇◇◇
その夜、マルテの咳は、いつもより長く続いた。
納屋の藁の上で天井を見上げながら、私は、明日の寄り合いで言うことを、頭の中で三十回組み立て直した。




