第1話 フグに敗れた男と、十二千種の資格
「ついに……ついに届いたぞ……!」
アパートの集合ポストの前で、私は封筒を蛍光灯に透かして掲げた。
隣室の大学生が自転車を押して通りかかり、目を合わせないまま会釈して去っていった。構わない。他人の視線で手が震えない夜は、合格通知を受け取った夜だけだ。
封を切る。中身は一枚の通知書だった。『ふぐ処理者試験 合格』。
免許証そのものは、今日の午後、保健所の窓口で受け取ってきた。厚手の紙の証書である。知事名と、朱色の角印。写真をプラスチックで挟んだあの形は、運転免許証やごく一部の免許にだけ許された贅沢で、ふぐの免許は紙で出る。折れないように、私はクリアファイルに挟んで持ち帰り、流しの脇に立てかけた。
しかもこれは国家資格ではない。都道府県の条例に基づく、知事の免許である。だから名称も県境を一つ越えれば変わる。ふぐ調理師。ふぐ処理者。ふぐ包丁師。同じ魚に同じ角度で包丁を入れる技術に、この国には三つ以上の呼び名がある。
そういうことだけを、私は知っていた。
私の名前は白羽蓮。三十五歳、独身、賃貸六畳一間。勤め先は医療事務の派遣で、「白羽さんって、何の仕事してる人でしたっけ」と三年目の後輩に真顔で聞かれる程度の存在感しかない。
だが、この六畳一間の壁だけは違う。
壁一面が、額である。取得年の古い順に左から並べ、水平は水準器で出した。ネジを打った夜、隣室から壁を叩く音が返ってきた。
一番左の、一番古い額。それが医師免許だった。
医学部に六年通い、国家試験は一度で通った。二十四歳の春、白衣の左胸に名札をつけて、大学病院の内科医局に入った。
二年で、辞めた。
病棟の上級医が、朝の申し送りで毎日私だけを立たせた。「この程度の鑑別も挙げられんのか」「君の患者が死ぬぞ」。半年で八キロ痩せて、一年で、朝、職員通用口の前まで来ると足が動かなくなった。
辞表を出したとき、医局長は「他所へ行っても同じだぞ」と言った。私は「はい」と答えた。それが、私が医者として最後に言った言葉だった。
医師免許は、返さなくてよかった。国家が発行したものは、辞めても消えない。あの二年で私に残ったのは、それだけだった。
その年の秋、私は宅地建物取引士を受けた。これなら誰の顔色も窺わずに済むと思った。合格した。通知が届いた朝、久しぶりに息が深く吸えた。
それから十一年で、額は百七枚になった。
司法試験合格証書。公認会計士。気象予報士。電気工事士。行政書士。通関士。調理師。額に入りきらなくなって、押し入れの衣装ケースには賞状が地層のように積もっている。
人はそれを「資格マニア」と呼ぶ。私は「向上心」と呼んでいる。呼んでいるが、本当のところは自分でも知っている。
私は、ただ怖かったのだ。名刺を出すとき、会議で意見を求められるとき。声が震え、手のひらが湿り、頭が白くなる。そういう自分を、「合格」の二文字で一枚ずつ塗り固めてきただけだった。
試験会場でだけ、私は無敵だった。マークシートは私の目を見ないし、論述用紙は私に雑談を振らない。
だから今夜は、記念日だった。
まな板の上には、調理師学校時代のツテで譲ってもらった未処理のトラフグが一尾、濡れた目でこちらを見ている。流しの脇には教本を立てかけ、念のため携帯電話で動画も回した。後で反省会をするつもりだった。
「教本第三章、有毒部位の判定。肝臓、卵巣、皮、腸。除去手順、完璧に暗記済み。血抜きの角度、二十度。包丁は二本、有毒部位用と身用で持ち替える。……ふふ。理論上、私の包丁さばきに死角はない」
理論上、という言葉が、後から思えばすべてだった。
包丁が走る。皮が剥がれる。白い身が、薄く、薄く、皿の上に花のように並んでいく。我ながら見事な薄造り――に見えた。蛍光灯の下で、皿はちゃんと光っていたのだ。
「いただきます」
一切れ。コリ、と歯が鳴る。淡白で、それでいて奥から旨味が滲む。
「美味い。美味いぞ。私はやはり天才――あ」
唇が、痺れていた。
炭酸水を飲んだ後のような、ちりちりした感覚である。それが引かずに舌の先へ広がり、箸を持ち直そうとして、箸の重さが分からないことに気づいた。
食後、二十分ほどだった。
医師免許を持つ男の頭が、そこで初めて正しく動いて、正しい診断を出した。
テトロドトキシン。神経のナトリウムチャネルを塞ぐ毒である。塞がれた神経は信号を通さない。通さない神経の先の筋肉は、動かない。
第一度。口唇と舌端の麻痺、指先の麻痺。教本の第一章に書いてあったとおりの順で、それは来ていた。
立ち上がろうとして、膝が畳をすべった。
第二度。不完全運動麻痺、歩行不能。胃が逆流して、畳に手をついたまま吐いた。吐いても毒は血に入っている。吐いて出るものではない。
携帯電話に手を伸ばした。録画中の画面に指を置いたが、表面を滑るだけで、一一九の一つ目が押せない。
この毒に、解毒剤はない。治療はただ一つである。呼吸を機械に代わってもらい、毒が抜けるまで待つ。発症から数時間が山で、八時間呼吸が続けば、助かる見込みが出る。
八時間。たった八時間、誰かに呼吸を代わってもらえれば、私は助かるのだ。
助かる方法を、私は知っていた。十一年かけて百七枚の紙にしてきたのは、こういう知識だったはずだ。
知識は、電話をかけてくれなかった。
第三度。完全運動麻痺。喉が鳴った。空気が入ってこない。胸を動かそうと思っても、動かす筋肉が返事をしない。言葉は、「あ」の形にすらならなかった。
それなのに、意識は、はっきりしていた。
これが、この毒のいちばん残酷なところである。運動が先に死ぬ。感覚と意識は最後まで残り、残ったまま、呼吸だけが止まっていく。
蛍光灯の傘にたまった埃が見えた。流しの脇のクリアファイルの中で、知事の角印の朱が見えた。見えていて、瞬きが、できなかった。
(……水洗いでは、ない)
薄れていく頭の隅で、今夜の手順が逆から再生された。皮を剥いた。肝臓を外した。外した包丁を、持ち替えなかった。
教本の第三章には、朱書きで一行あった。『有毒部位を処理した包丁及びまな板は、ただちに洗浄し、身の処理に用いないこと』
暗記していた。暗記していたが、今夜は記念日だった。記念日の高揚で、私はその一行だけを飛ばした。
飛ばした一行が、私を殺した。
第四度。意識消失、呼吸停止。
携帯電話の録画ランプが、赤く、律儀に点いている。あれは残る。あれが残るのだけは、本当に、やめてほしかった。
(試験なら……満点だった、のに……本番は……一回しか、ない……)
倒れた私の鼻先で、クリアファイルに挟んだ紙の証書が、蛍光灯を映して白々と光っていた。
『ふぐ処理者免許』。
それが、白羽蓮という男の、あまりにも滑稽な最期だった。
――はず、だった。
◇◇◇
「……で? なんで死んだの?」
気がつくと、私は真っ白な空間に正座していた。
目の前に、娘が立っていた。
十八かそこらに見えた。背は低い。癖のある明るい色の髪が肩のところで跳ねていて、片方だけ耳にかけてある。目が大きく、その目が今、はっきりと呆れていた。
白い衣に、金の帯。袖が広い。腕を組んで、片足に体重をかけて立っている。
衣の裾が、揺れていた。風はなかった。
素足が、床から指一本分だけ浮いていた。
「あ、いえ、その。自分で調理したフグに、当たりまして」
「あなた、医師免許持ってたよね」
「はい」
「使ってた?」
「……二年だけ」
「調理師免許も」
「はい」
「ふぐ処理者免許、取った当日だよね」
「……はい」
「で、教本の一行を飛ばしたの?」
「……朱書きの、一行を」
「朱書き!! 朱書きって、そこだけ赤いやつでしょ!?」
「赤かったです」
「資格社会の弊害そのものじゃねえか!!」
彼女は床を踏んだ。浮いている素足で、である。音は出なかった。
音の代わりに、ツッコミが魂に直接刺さった。正座の膝が震えた。
「百七個。百七個も取って、なんで一個も身につかないの? 普通、一個取ったら一個できるようになるでしょ?」
「……できるようになる資格と、できるようになった気になる資格が、ありまして」
「一番やっちゃいけない人間が、一番正しい分析してる」
娘は両手で頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
しゃがんだまま、長い長いため息を吐いた。吐き終えて、下から私を見上げた。
「私は資格神アーカイブス。とある世界の管理者。三千年前、迷える人類に『資格』という人生の道標を与えた者。……与えたはずだったんだけどね」
「私の世界は今、腐りかけてる。みんな資格を『ゴール』にしちゃった。年収番付とコスパ番付を見て、載ってない資格は誰も受けない。……十二千種類あるのに、受験者がいる資格は三百もない」
十二千。聞き慣れない数え方だったが、意味は分かった。一万二千だ。
その数字で背筋が伸びたのを、彼女は見ていたらしい。
ずい、と顔を寄せてきた。鼻の先が触れそうな距離だった。
見た目は十八の娘である。娘なのに、近づかれると息が詰まった。
「……今の顔。それ。その顔なのよ」
「は」
「あなたね、目的と手段は完全にバグってる。実践力はフグ以下。でも『学びたい、受かりたい、次も受けたい』っていう執念だけは、私が三千年観測した中でぶっちぎりの異常値なのよ」
「褒められて、いるんでしょうか」
「半分ね。――行きなさい、白羽蓮。私の世界『アルカディア』へ。あなたのその狂った好奇心で、止まった世界に風を吹かせてきて」
「え、ちょっと、待ってください、心の準備が、あと派遣先に引き継ぎ資料も作って――」
彼女は聞いていなかった。
袖をまくって、両手で私の肩を掴み、背中を押した。十八の娘の腕力ではなかった。
視界が白い光に呑まれた。最後に見えたのは、手を振っている彼女の姿だった。
声だけが、落下する私を追いかけてきた。
「今度は、ちゃんと包丁を持ち替えなさいよー」
余計なお世話である。
◇◇◇
――頬に、風。
目を開けると、青い空があった。草の匂い。遠くで鶏が鳴いている。身を起こすと、なだらかな丘の下に、藁葺き屋根の家々が肩を寄せ合う小さな村が見えた。歴史の教科書で見た、中世の農村そのものだ。
自分の手を見る。三十五年ものの、乾いてごつごつした手ではない。白く、細く、少し頼りない――少年の手だった。
『――世界システムへの接続を確認。転生者の魂の統合を完了しました』
頭の中に、硬質な声が響く。
『固有スキル【資格神の祝福】、および専用機能【資格図鑑】を付与します』
目の前の空中に、青く光る半透明の板が、音もなく展開した。
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【人生ステータス】
名前:レオン・シラハネ 年齢:15歳 種族:人間
Lv :1 職業:見習い村人
HP :50 / 50 MP :20 / 20
筋力:5 / 敏捷:6 / 魔力:8
知力:25 / 魅力:7 / 運 :12
【固定スキル】
・『資格神の祝福』:資格取得時、能力上昇・スキル獲得・職業解放が発生。
・『資格図鑑』:この世界の全資格の受験条件・試験日・合格率を閲覧可能。
・『試験分析EX』:試験の出題意図・採点基準・試験官の癖を構造化して読み取る。
【人生評価ステータス】
挑戦力:35 / 共感力:5 / 幸福度:22 / 社交性:1
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「ステータス画面……本物の……」
声が震えた。感動で、である。十五歳の身体は素直だ。
筋力5。敏捷6。悲しいくらい前世を引き継いでいる。知力だけが25と頭一つ抜け、そして社交性1。システムというものは、見なくていい真実まで数値化してしまうのか。
だが、そんなことはどうでもよかった。私の目は、画面の一番下に釘付けになっていた。
【保有資格数】:0 / 12,000
「……ゼロ」
ゼロだった。百七枚の額は、もうどこにもない。
膝が草を掴んだ。震えているのは、恐怖ではなかった。
日本の国家資格と検定を、私は百七しか取れなかった。時間が足りなかった。金が足りなかった。何より、命が足りなかった。
その私の目の前に今、一万二千の、まだ一つも取っていない資格が並んでいるという。
「……取り方、教えて」
丘の下の畑から、こちらを見ていた村の子どもが、ひっ、と小さく叫んで逃げていった。知らない少年が草原に一人、何もない空中に向かって涙ぐんでいたのだから、無理もない。
「あ、待って。ここはどこの――」
立ち上がって、三歩で分かった。この身体には、水も食料も、履き慣れた靴もない。丘を下りる道は長く、日は速く落ちた。喉が貼りつき、足が自分のものでなくなった頃、村の柵が見えた。
膝から崩れる間際に、私は一つ、冷静な結論を得た。
百七個の中に、サバイバルの資格だけは、一枚もなかった。
保有資格、ゼロ。残り、一万二千。
私の第二の人生は、白紙の受験票と、行き倒れから始まった。




