第25話 実技前夜、宿の屋根裏
実技の前夜、私は眠れなかった。
眠れない理由は、分かっている。分かっていることが、なお悪い。
屋根裏の藁の上で、木剣を膝に置く。柄頭には、ペーターの組紐。それを見るたび、少し落ち着く。だが、木剣の柄を握ると――握った手が、震える。
震えの出所も、分かっている。
前世の、最後の夜。蛍光灯の下、まな板の上の白い身。包丁を握ったあの手は、震えていなかった。震えるべきときに、震えていなかった。理論上、私の手順は完璧だったのだから。
あの手が、今、震えている。時と場所を間違えて。
「――だから村の金でよぉ、田舎者が剣士なんぞ受けに来るのが、まず間違ってんだよ」
板一枚隔てた隣室から、若い男の高笑いが響いた。宿の主人が「貴族様のご子息」と言っていた客だ。絹の上着の少年たちのうちの一人、ライナー。従者を二人連れ、試験場では列にも並ばず、今は宿の一番いい部屋で酒を飲んでいる。
「聞いた話じゃ、明日の実技、俺の代わりに『兄貴』が出るんだとよ。三千で本物の剣士が受けてくれるなら安いもんだろ。俺は明日、一日寝てりゃ剣士様だ」
従者の追従笑い。私は藁の上で、木剣を握ったまま、その言葉を聞いていた。
替え玉。図鑑の資格院法規には、明確に禁止規定がある。だがそれは、王都の法だ。この崩れかけた領主庁で、誰がそれを見張る。
(……俺には、関係ない)
関係ない、と思おうとした。私の試験は、私の試験だ。あの少年が何を買おうと、明日の広間で、私の前に立つのはガルムであり、私の手は震え、私の剣は当たらない。
だが、関係ないと思うほど、腹の底が熱くなった。試験を、私は愛している。前世から、たぶん、人生で唯一、愛していた。その試験が、板一枚向こうで、三千Gで売り買いされている。
組紐を、指で撫でた。
ペーター。「おれ、死ぬのに勝った」。
私は木剣を置き、棚卸しの板を出した。実技の項目。構え、足運び、防御動作、有効打。三つ塗り潰され、一つ白い。
その白い一角を、木炭で、ゆっくり撫でた。
(当てなくていい。崩れなければいい。……崩れないためには)
ガルムの左足。彼は「五年前の癖は直した」と言った。ならば今の癖は、どこにある。
私は目を閉じ、井戸端の一瞬を、もう一度再生した。彼が左足を軽く前に出したとき――足より先に、動いたものがあった。
尻尾だ。
獣人の尻尾が、踏み込みの寸前、わずかに、右へ振れた。本人も、たぶん気づいていない。人間の試験官なら、癖は肩と足に出る。獣人の癖は、尻尾に出る。闇予備校の連中は「五年前の左足」を教え、その左足が直ったあとに残った尻尾の癖を、誰も見ていない。
根拠は薄い。井戸端で見たのは一度きりだ。だが、私に見えたものは、それだけだった。
隣室の高笑いが、まだ続いている。
私は木剣を、もう一度握った。手は、震えている。それは、明日の朝まで、たぶん止まらない。
(震えたまま、でいい)
あの夜、私の手は震えていなかった。震えていたら、たぶん、私はもう一度、流し台に戻ったのだ。
震える手のほうが、まだしも、まともである。
夜が明けるまで、私は木剣の柄を握ったり、離したりを繰り返した。組紐の固結びが、そのたびに、手のひらに小さく食い込んだ。




