第20話 干し肉と朝靄
出発の朝は、深い靄だった。
ヨナスの荷馬車は夜明け前に村に着き、塩の空樽と、村からの託送品(ヒルダの薬草の束、鍛冶屋の修繕依頼の鍬、村長からブレナの領主庁への書状)を積み込んだ。私の荷物は、着替えと、木剣と、棚卸しの板と、革袋と、干し肉。全部合わせて、片手で提げられた。
見送りは、いないはずだった。農繁期の朝、村人は畑に出る。それがこの村の礼儀であり、実際、広場には誰もいなかった。
いなかったのだが。
「にいちゃーん!」
村はずれの、例の土手の上に、小さな影が三つ立っていた。ペーターと、悪童が二人。畑に出る歳ではない者たちが、朝靄の中で、ぶんぶんと手を振っている。
「光ってこいよー!」「ファンファーレ、聞かせろよー!」
試験の応援の言葉として、あまりに独特である。私は荷台から手を振り返した。
土手の下、井戸端には、水汲みの女たちが数人。マルテが咳を一つして、無言で頷いた。ヒルダの小屋の煙突(村で唯一、煙突がある)から、朝の煙がまっすぐ立っていた。
そして、街道へ折れる角の、栗の木の下に。
リーゼが、牛を二頭連れて立っていた。朝の水飲み場への道である。偶然の体裁は、一応、整っていた。
荷馬車が通り過ぎるとき、彼女は牛の綱を持ったまま、こちらを見ずに、前だけを向いて言った。
「――二つとも、よ」
それだけだった。荷馬車の軋みに紛れそうな、小さな声だった。
「ああ。二つとも」
私も、それだけ返した。ヨナスが御者台で、にやにやしながら「青春だねえ」と呟いたのは、聞かなかったことにした。
村が、靄の向こうに小さくなっていく。
藁葺きの屋根。白い縁取りの溝。膝の高さの土手。二月半前、行き倒れの私を拾った、笑い声のうるさい、貧しくて、優しい村。
私は荷台の上で図鑑を開き、二枚の受験要項を並べて表示した。
『剣士(D級)』 試験地:領主町ブレナ 合格率:18%
『下水清掃士(E級)』 試験地:領主町ブレナ 合格率:78%
十八パーセントと、七十八パーセント。世間の値札では、前者が「無謀」で、後者が「無価値」。
どちらも、取りに行く。無謀のほうは私のために。無価値のほうは、土手の上で手を振っていた、あの洟垂れどものために。
懐から干し肉を一切れ齧る。塩気が濃くて、噛むほどに味が出た。リーゼの母の味付けは、リーゼの口の利き方によく似ている。
「兄ちゃん、ブレナは初めてか」ヨナスが御者台から声を投げた。「着いたらまず宿だ。試験期のブレナは受験者でごった返す。闇予備校の客引きにゃ気をつけな。ありゃ、田舎者の四千Gを狙う商売だ」
「四千G」
懐の革袋を、服の上から押さえる。村中の手垢のついた、精算という名の、期待の重さ。
靄が晴れ始め、街道の先に、朝日が差した。荷馬車の軋みと、牛の鈴と、遠ざかる村の鶏の声。
柄頭の不揃いな組紐が、揺れていた。




