第164話 監査権
『監査結果に基づく、営業停止の、勧告』
図鑑の、その一行を、私は穴があくほど読んでいた。
勧告。
命令じゃない。会計士にできるのは「営業をやめなさい」と勧めるところまでだ。
そして――勧告を受けた店は、資格院に「異議」を申し立てることができる。
三十年前から、そう決まっていた。
ただし、条件が一つ。
『被監査者の帳簿の再監査を添えること。
再監査は、簿記士B級以上の、第三者が行う』
(簿記士B級以上の……第三者)
――三日前に取ったやつだ。
この条件は、三十年前からずっとここにあった。満たせる人間が、いなかっただけだ。
わざとそういう条件にしたのか、たまたまなのかは、分からない。
私は、条文を最初から、もう一度読み直した。
一行も、飛ばさないように。
(朱書きの一行を飛ばして、一回死んでるからな、私は……)
◇◇◇
角の靴屋は、まだ板が打ちつけられたままだった。
おじいさんは、まだ路地に座っていた。冬の路地に、もう三十日。
膝の上に、誰かが置いていった古い靴が一つ載っている。直したくても、道具は板の向こうだ。
「……魔法士さん。いや、商人さんかい、今度は」
「簿記士です。今日から」
私は、おじいさんの前にしゃがみこんだ。
「ご主人。監査の勧告には、異議を申し立てられます。規程にあるんです」
「いぎ……?」
「『その監査、おかしいです』って、正式に言えるんです。簿記士が帳簿を調べ直せば」
おじいさんは、ゆっくり顔を上げた。
「……そんなことが、できるのか」
「できます」
「三十年。この通りで板を打たれた店は、二十軒ある。誰も、そんなこと言わなかったぞ」
「言えなかったんだと思います。簿記士はみんな、商会に雇われてます。商会は、財務部とつながってます」
――つながってる相手に、自分を潰す書類は書けない。
「……じゃあ、あんたは?」
「どこにもつながってません。解体場と、食堂だけです」
(解体場と食堂につながってる簿記士なんて、たぶん王国で私一人だ)
「帳簿を見せてください。私が、調べ直します」
おじいさんは、打ちつけられた板の隙間に手を突っ込んだ。
ごそごそやって、革の帳面を三冊、引っぱり出した。
三十年分で、三冊。
開くと、ところどころ、数字が飛んでいた。三か月、何も書かれていない年がある。
「ご主人。この年は……」
「……女房が死んだ年だ」
それだけだった。
その三か月、店が開いていたのか閉まっていたのか、帳面には何も残っていない。
残っていないものを、監査は見ない。見るのは、合計だけだ。合計は、三か月分を書かなくても、ちゃんと出る。
◇◇◇
物置で、一晩。
蝋燭を、二本使った。
朝――見えた。
靴屋の売り上げは、この十年、ほとんど変わっていなかった。
変わっていたのは、二つだけ。
革の値段と――監査料。
規程の上限は、売り上げの一割。
なのに、実際に払っていた監査料は――
十二パーセント。
十五パーセント。
去年は、二割。
「……上限を、超えてる」
十年で払いすぎた分を、全部足した。
――四万二千G。
(払えなかった上納金より、多いじゃないか……!)
◇◇◇
板に、一行書いた。
『道具がないことは、悪意と同じ働きをする』
いつもの「まだ分からないこと」の欄じゃない。
左の、「確かめたこと」の欄に書いた。
会計士がわざとやったのか。それとも、店主が気づく道具がなかっただけなのか。それは分からない。
でも、結果は、同じだ。
おじいさんは十年、毎年、規程より多く払い続けた。気づく方法が、なかったから。
八万Gの受験料を払えたのは、ドルフ親方の山の骨を、炭の塩にできたからだ。
(親方にお礼を言わなきゃ。……「骨が帳簿を掘りました」じゃ通じないな。言い方、考えよう)
様式は、図鑑の付録に載っていた。三十年、誰も使わなかった、異議申し立ての書類の様式。
そこに、今日、初めて、簿記士B級の署名を入れる。
蝋燭の残りを見た。三本目に火をつけるか、少し迷って――つけた。
書類は、一枚じゃ足りない。異議の理由書。再監査の明細。それから写し。
板の「まだ分からないこと」の欄に、新しい一行が増えていた。
『上納金の代わりに予備校へ行かされた孫。その月謝は、誰の懐に入っているのか』




