第163話 簿記士B級 ―日商簿記二級レベル―
「『震える手の塩』って、呼ばれてるよ」
商会の番頭ルドガーが、荷馬車の上からにやにやして言った。
「……は?」
「坊やの炭の塩さ。貴族のあいだで、そう呼ばれてる。震える手の料理人が作った塩、って。大人気だよ」
(勝手に名前がついてる……!)
しかも、宴で私の震える手を見物しに来た貴族たちが、その震えを売り文句にしている。
で、その売り文句の分の取り分は――もちろん、私にはない。
二十日で、六十袋売れた。売り上げ、十二万G。
(いや、まあ、いいんだけど……いいんだけど、なんかこう……)
ついでに図鑑で「手の震え」を引いてみた。
『手指振戦鑑定士』――は、さすがになかった。
ちょっとだけ、ほっとした。
◇◇◇
十二万Gから、塩と燃料の一万八千Gを引いて、残りは十万二千G。
そのうち二万二千Gを、炊き出しの資金に回した。
残り、八万G。
――簿記士B級の、受験料だ。
「八万Gを、簿記に?」
マーサが、帳面から顔を上げた。
「アンナの治癒士の受験料と、同じ額だろう」
「同じです」
「……それでも、出すのかい」
「出します。次の八万で、アンナの分を作ります」
「次の八万は、いつ入るんだい」
「炭の塩が売れるうちは、入ります」
マーサは、それ以上何も言わなかった。
前世の私は、百七枚の資格のうち、何に使うか決めて取ったのは十枚もなかった。
でも、今回は決まっている。
マーサの帳面と、靴屋のおじいさんの帳面。三十年、持ち主に何も見せてこなかった数字を、見えるようにするためだ。
◇◇◇
試験会場は、上町だった。
受験者は三十人。みんな、商会の若い番頭か、会計士の見習いだ。全員、仕立てのいい服。
その中に一人だけ、腰に木札を四つぶら下げた平民がいる。
何人かが、二度見した。
三度見した人もいた。
(数えたのは、試験が始まるまで暇だったからです)
『第一問 以下の取引を仕訳せよ』
――日商簿記二級。前世で、三十歳の春に取ったやつだ。
『魔物肉、仕入』『魔導ランプ、減価償却』『聖水、消耗品費』。
項目の名前は異世界っぽいけど、中身の理屈は、まったく同じだった。
(骨組みが分かれば、名前なんて、置き場所で分かる……!)
一時間で、全部解き終わった。
試験時間は、二時間ある。
◇◇◇
残りの一時間。
私は、答案の余白に、こっそり書き足した。
『注:本問の損益計算書には、
「炊き出し」のような、売り上げゼロの支出を
載せる場所がない。
別に「社会的支出」の項目を設けることを提案する』
減点はされない。採点の項目にないから。加点もされない。同じ理由で。
それでも、書いた。
――五百年前。
王都の下水口の壁に、誰にも読めない字で、八文字を刻んだ男がいる。
その字は、日本語だった。この世界でそれを読めるのは、刻んだ本人と、私だけ。そして本人は、もういない。
五百年、あの字はただの落書きだった。五百年目に、読める人間が一人だけ、やってきた。
(前世の私は、余白に一行も書かなかったな)
余白に書くと、採点する人が困る。困らせないことばかり、気にしていた。
その結果、百七枚の合格証のどこにも、私の字は一行も残っていない。
◇◇◇
『簿記士(B級)
合格者、四名。……首席、レオン・シラハネ(満点)』
「満点です。三十年の記録で、簿記士B級の満点は、五人目です」
刻印の日。受付の書記が、私の答案を持って追いかけてきた。
「それで……お聞きしたいのは、この余白なんですが」
書記は、私の七行を、指でなぞった。
「上に回したら、『そんな項目はない』と言われました」
「でしょうね」
「ですが、上はこうも言ったんです」
書記は、声を少し落とした。
「『複式簿記は、あらゆる支出を記録する。記録できない支出は、存在しない。――存在するなら、項目が要る』と」
(……え?)
「誰が、そう言ったんですか」
「総長です」
バルトロメウス・グランツ。保有資格三十二。王国一の資格持ち。報告書の余白に、いつも『措置、不要』とだけ書く人。
「総長が、あなたの答案を読みました。そして、いつもどおり『備考欄に記録。措置、不要』と。……でも、そのあとに、一言付け加えられたんです」
書記は、ごくりと唾を飲んだ。
「『……この者は、複式を、どこで覚えた。下町の食堂で、誰から学んだ』と」
――どこで、覚えたか。
答えなかった。
答えられなかったわけじゃない。前世の資格予備校です、と言って通じる世界じゃないだけだ。
書記は、胃薬を一つ飲んで、印を押した。
【資格取得】『簿記士(B級)』
→ 能力上昇:知力+10 魅力+2
→ スキル獲得:『複式簿記 Lv3』『財務分析 Lv1』
→ 資格シナジー検出:『商人』×『簿記士』= 派生技能『帳簿監査(初級)』を獲得!
保有資格:16 / 12,000
帳簿監査、初級。
その文字を見た瞬間、頭に浮かんだのは――靴屋の戸に打ちつけられた、あの板だった。




