第161話 損益、一晩で可視化
カン、カン、カン!
朝の厨房に、釘を打つ音が響いた。
マーサが、私の書いた板を、壁に打ちつけていた。糊じゃない。釘で。
「見えないと、忘れるからね」
一番上に打ったのは、塩と麦の値上がりの板だった。炊き出しの赤字の板じゃない。
どこに打つかは、私は何も言っていない。マーサが自分で選んだ。
釘を打ち終えて、マーサは一歩下がって、傾きを確かめて、指でぐいっと押した。
支えようとして伸ばしかけた手を、私は引っ込めた。
――自分で場所を決めた板だ。まっすぐになるまで、次の釘を手の届くところに置いておくだけでいい。
◇◇◇
ミラが、板の前で立ち止まった。
指で桁を数えながら、ゆっくり読む。
「……たきだし、ろくまん、ごせん、じー」
指が、止まった。
「私の炊き出し……六万五千Gもかかってたの? ……ごめん、女将さん」
「謝るんじゃないよ」
マーサは、鍋をかき回しながら言った。
「炊き出しは、私が鍋を出したんだ。あんたが頼んだんじゃない」
匙で、鍋の縁をカン、と叩く。
「六万五千で、今年、路地の子どもが何人、葬式にならずに済んだか。――それは、板に書いてないだろう」
……書いていなかった。
板は、お金のことしか書かない。
「書きます」
◇◇◇
ミラに聞いた。去年と今年、路地の子を何人見送ったか。
ミラは、全員の名前を覚えていた。
六枚目の板を作った。
『炊き出し。二十三人。……葬式、去年七。今年二』
「……その板は、監査には通らないね」
「通らないと思います。でも、この店の帳簿には、要ります」
六枚目を、マーサが打ちつけた。
その下の棚に、ミラが椀を一つ置いた。ルナの椀だ。底を上に向けて、『ルナ』という太くて震えた字が、板のほうを向くように。
ミラは、何も言わなかった。
「……ねえ、レオン。この板、会計士様が来たら、どうなるの?」
「六枚目は、見ないと思う。見るのは、合計だけだ」
「見ないと、どうなるの」
「ないものは、ないことになる」
ミラは、六枚目をじっと見た。
「……去年、七人」
戸棚の下の段に、伏せたままの椀が二つある。もう来なくなった子の分だ。
伏せた椀は、数に入らない。
でも、ミラは、捨てていない。
◇◇◇
その夜。七枚目の板を作った。
『東三番通り 炊き出し帳簿
魔物肉、ただ。荷車、ただ。
一日の費用:塩二百G、豆百五十G、薪五十G。
売り上げ:ゼロ』
食べ物を売らないから、売り上げはゼロ。でも塩も豆も薪も、毎日お金が出ていく。
それを埋めているのは、今はマーサと、私。
私の分は、炭の塩の売り上げから出している。――炭の塩が、売れるうちは。
(財務理事の手帳。あの人なら、炭の塩の作り方を商会に押さえさせるくらい、すぐやる)
骨の炭なんて、作り方さえ分かれば誰でも作れる。そうなったら、私の袋はいらなくなる。
板に書いた。
『炭の塩は、いずれ商会に取られる。取られる前に、次の稼ぎを』
次の稼ぎが何なのかは、まだ書けなかった。
代わりに、日付を書いた。商人C級の試験日。三日後だ。
『炭の塩、六袋。一万二千G。……骨から出たお金で、商人を受ける』
解体場の山に、四十年積まれていた骨だ。
ドルフ親方は、毎日、肉の山を「手前」と「奥」に分けていた。いつか誰かが取りに来る、と思って。
――まさか骨まで持っていくやつが来るとは、親方も思ってなかっただろうな。
◇◇◇
夜遅く、ミラが物置に来た。
七枚目の板の、『売り上げ:ゼロ』の字を、指でなぞる。
「……ゼロって、書くんだ」
「書く。書かないと、誰が埋めてるか見えなくなる」
「ねえ、レオン。ゼロの下に、もう一つ書ける?」
「何を?」
「『もらったもの』」
ミラは、指を折って数え始めた。
「椀は、桶屋のおばさんが貸してくれた。草は、私が摘んだ。荷車は、ギルド。肉は、親方の山。……お金じゃないけど、いっぱい、もらってる」
――確かに。
この帳簿は、お金の出入りしか見せていない。椀を貸してくれた気持ちとか、朝早く草を摘む手間とか、そういうのは、一つの金額には直せない。
「……書く。八枚目に」
「八枚目!? 女将さんの壁、足りなくなるよ」
「足りなくなったら、反対側の壁に貼る」
「反対側だと、鍋の前から見えないよ?」
それじゃ貼る意味がない――と言いかけて、やめた。
板を書くのは、私。でも、どこに打つかを決めるのは、この店の女将さんだ。
夏までは、板を見せても、マーサは鍋から顔を上げなかった。上げるようになったのは、井戸を石灰で消毒して、子どもの腹下しが減ってからだ。
数字で動く人じゃない。
数字の後ろにいる、子どもの数で動く人だ。
だから、六枚目――葬式の数の板を、マーサは、鍋の前から顔を上げればすぐ見える高さに打った。
打った釘は、曲がっていた。マーサは、抜かずにそのまま叩き込んだ。板は、ちょっとだけ傾いて壁にくっついた。
翌朝。マーサは鍋をひと混ぜして、顔を上げて、その傾いた板を見た。
「……こっちのほうが、間違いを見つけやすいね」
来月、この壁を、会計士も見に来る。
傾いた六枚目を、会計士が見ないことだけは、もう分かっていた。
分からないのは――見たら、どんな顔をするかだった。




