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異世界資格マスター ~最弱村人から始める資格無双。試験分析EXで世界をアップデートします~  作者: 東雲 諒杏
第五章「貴族の宴と神殿の影」

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第160話 塩二百Gを二つに書く


「……それ、呪文かい」


マーサが、板を覗き込んで眉を寄せた。


板の左に『借方』。右に『貸方』。


「呪文じゃないです。左と右の欄の名前です」


私は、一行目を書いた。


左に『材料 二百G』。右に『現金 二百G』。


「塩を一袋、二百Gで買った。それだけの話です」


「それだけの話に、なんで二つも書くんだい」


「『何に使ったか』と『何で払ったか』を、セットで残すためです」


左を指す。「塩という材料が、二百G分増えた」


右を指す。「その代わり、手元の現金が、二百G減った」


「……ふうん。じゃあ、左が使い道で、右が払った元かい」


「この取引ではそうです。でも――」


私は、二行目を書いた。左に『現金 三百G』。右に『売上 三百G』。


「これは、お客さんに料理を売って、現金を三百G受け取ったとき」


「今度は、現金が左に来たね」


「はい。現金は、増えたら左、減ったら右。左が好きとか嫌いとかじゃなくて、増えたから左なんです」


「お金の好き嫌いまで聞いてないよ」


(……ですよね)


前世の簿記の先生が、まさにこの「好き嫌い」の説明で、受講生を三人眠らせていたのを思い出した。私は、三つ目の例を消した。


マーサが、二つの『現金』を、太い指で交互に指した。


「二百払って、三百もらった。……現金は、百増えた」


「正解です!」


「褒めるんじゃないよ、子どもじゃあるまいし」


そう言いながら、口の端がちょっとだけ上がっていた。


◇◇◇


「で、これをやると、何がいいんだい」


「『どこでお金が消えてるか』が、行ごとに分かります。たとえば――塩は、冬に高いですよね」


「知ってるよ。三十年買ってるんだ」


「じゃあ、夏のうちに、冬の分の塩を買ってますか?」


「……買ってない。夏は、お金がないからね」


夏にお金がない理由が、この帳面の中に埋まっている。


三十年、誰もそれを掘り出さなかった。掘る道具が、下町になかったから。


――道具は、私の頭の中にあった。


前世で、日商簿記一級を取った。三十一歳の秋に。そして、一度も使わなかった。


使う場所がなかったわけじゃない。探せば、誰かと話すことになる。話せば、自分の足りないところが見える。それが怖くて、探さなかった。


「……今年の分、全部、左右に書き直します。一晩ください」


「一晩で、一年分?」


「学習効率向上、Lv4なので」


「……意味が分からないよ」


それでも、マーサは帳面を渡してくれた。


◇◇◇


その夜。


三百六十五件を、一件ずつ、左右に書き直した。


途中で、古い帳面も比べるために開いた。皿の買い替えの行に、ミラの名前が二回だけ書いてあった。二年前の、冬。


何があったのかは、書いてなかった。


聞かないことにした。


夜中。蝋燭が二本目の半分になった頃、左右の合計が――ぴたりと、合った。


「……よし」


そして、見えた。


去年と比べて、塩は二割五分。麦は五割。豆は三割、値上がりしていた。


薪の支出は――下がっていた。


(私の火魔法のおかげだ! 初級魔法士、帳簿の上で初めて手柄を立てたぞ!)


一人で小さくガッツポーズをした。誰も見ていなかった。


それから、一番大きな数字を見た。


炊き出し。今年ここまでで、六万五千G。


今年の赤字の七割が、炊き出しだった。マーサの言うとおりだ。


でも――残りの三割は、塩と麦と豆の値上がりだった。


マーサは、こっちに気づいていなかった。見えなかったからだ。見えないものに、人は手を打てない。


板の一番下に、書いた。


『対策一。炊き出しの帳簿を、店の帳簿と分ける。

対策二。塩を、港の町ポルト・アウレアで買う。王都の半値。

対策三。麦を、行商人ヨナスに頼む。手紙を書く』


◇◇◇


朝。マーサが物置の戸を開けた。


板が、五枚並んでいた。


「……これが、ふくしき、かい」


「はい。それで、女将さん。去年と同じ値段で塩と麦を買えてたら――今年、一万二千G、少なく済んでます」


マーサの目が、丸くなった。


「一万二千……」


「炊き出しの、三十日分です」


◇◇◇


ただ、一晩では、全部は終わらなかった。


三百六十五行のうち、三十一行が、何に使ったか分からない行だったのだ。


『雑、八十G』

『入用、二百G』

『払い、五十G』


「女将さん、この『雑』って何ですか」


「雑だよ」


「……何を買ったんですか」


「覚えてないよ。一年前だよ?」


合計、四千八百G。炭の塩、二袋半ぶんの、謎のお金。


でも――。


この『雑』は、悪いことをして書いた字じゃない。


夜、鍋を洗い終えて、くたくたの手で、蝋燭の下に一行書く。何を買ったか思い出す力なんて、もう残っていない。


その疲れた一文字が、三十年分、積もっていただけだ。


そして会計士は、その積もった中身を、一度も見に来なかった。月末の合計だけ見て、一割を取っていった。


(取る側に必要な数字だけがきれいに揃ってて、使う側が困る行は、ほったらかし……)


前世の職場と、同じ形だった。残業の時間は書かれず、評価の点数だけが書かれていた。私が辞めた理由も、どこにも書かれていない。だから医局長は、「他所へ行っても同じだぞ」と言えた。


マーサは、しばらく板を見ていた。


それから、ぼそっと言った。


「……あんたの呪文、悪くないね」


そして、五枚目の板を、黙って厨房へ持っていった。


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