第160話 塩二百Gを二つに書く
「……それ、呪文かい」
マーサが、板を覗き込んで眉を寄せた。
板の左に『借方』。右に『貸方』。
「呪文じゃないです。左と右の欄の名前です」
私は、一行目を書いた。
左に『材料 二百G』。右に『現金 二百G』。
「塩を一袋、二百Gで買った。それだけの話です」
「それだけの話に、なんで二つも書くんだい」
「『何に使ったか』と『何で払ったか』を、セットで残すためです」
左を指す。「塩という材料が、二百G分増えた」
右を指す。「その代わり、手元の現金が、二百G減った」
「……ふうん。じゃあ、左が使い道で、右が払った元かい」
「この取引ではそうです。でも――」
私は、二行目を書いた。左に『現金 三百G』。右に『売上 三百G』。
「これは、お客さんに料理を売って、現金を三百G受け取ったとき」
「今度は、現金が左に来たね」
「はい。現金は、増えたら左、減ったら右。左が好きとか嫌いとかじゃなくて、増えたから左なんです」
「お金の好き嫌いまで聞いてないよ」
(……ですよね)
前世の簿記の先生が、まさにこの「好き嫌い」の説明で、受講生を三人眠らせていたのを思い出した。私は、三つ目の例を消した。
マーサが、二つの『現金』を、太い指で交互に指した。
「二百払って、三百もらった。……現金は、百増えた」
「正解です!」
「褒めるんじゃないよ、子どもじゃあるまいし」
そう言いながら、口の端がちょっとだけ上がっていた。
◇◇◇
「で、これをやると、何がいいんだい」
「『どこでお金が消えてるか』が、行ごとに分かります。たとえば――塩は、冬に高いですよね」
「知ってるよ。三十年買ってるんだ」
「じゃあ、夏のうちに、冬の分の塩を買ってますか?」
「……買ってない。夏は、お金がないからね」
夏にお金がない理由が、この帳面の中に埋まっている。
三十年、誰もそれを掘り出さなかった。掘る道具が、下町になかったから。
――道具は、私の頭の中にあった。
前世で、日商簿記一級を取った。三十一歳の秋に。そして、一度も使わなかった。
使う場所がなかったわけじゃない。探せば、誰かと話すことになる。話せば、自分の足りないところが見える。それが怖くて、探さなかった。
「……今年の分、全部、左右に書き直します。一晩ください」
「一晩で、一年分?」
「学習効率向上、Lv4なので」
「……意味が分からないよ」
それでも、マーサは帳面を渡してくれた。
◇◇◇
その夜。
三百六十五件を、一件ずつ、左右に書き直した。
途中で、古い帳面も比べるために開いた。皿の買い替えの行に、ミラの名前が二回だけ書いてあった。二年前の、冬。
何があったのかは、書いてなかった。
聞かないことにした。
夜中。蝋燭が二本目の半分になった頃、左右の合計が――ぴたりと、合った。
「……よし」
そして、見えた。
去年と比べて、塩は二割五分。麦は五割。豆は三割、値上がりしていた。
薪の支出は――下がっていた。
(私の火魔法のおかげだ! 初級魔法士、帳簿の上で初めて手柄を立てたぞ!)
一人で小さくガッツポーズをした。誰も見ていなかった。
それから、一番大きな数字を見た。
炊き出し。今年ここまでで、六万五千G。
今年の赤字の七割が、炊き出しだった。マーサの言うとおりだ。
でも――残りの三割は、塩と麦と豆の値上がりだった。
マーサは、こっちに気づいていなかった。見えなかったからだ。見えないものに、人は手を打てない。
板の一番下に、書いた。
『対策一。炊き出しの帳簿を、店の帳簿と分ける。
対策二。塩を、港の町ポルト・アウレアで買う。王都の半値。
対策三。麦を、行商人ヨナスに頼む。手紙を書く』
◇◇◇
朝。マーサが物置の戸を開けた。
板が、五枚並んでいた。
「……これが、ふくしき、かい」
「はい。それで、女将さん。去年と同じ値段で塩と麦を買えてたら――今年、一万二千G、少なく済んでます」
マーサの目が、丸くなった。
「一万二千……」
「炊き出しの、三十日分です」
◇◇◇
ただ、一晩では、全部は終わらなかった。
三百六十五行のうち、三十一行が、何に使ったか分からない行だったのだ。
『雑、八十G』
『入用、二百G』
『払い、五十G』
「女将さん、この『雑』って何ですか」
「雑だよ」
「……何を買ったんですか」
「覚えてないよ。一年前だよ?」
合計、四千八百G。炭の塩、二袋半ぶんの、謎のお金。
でも――。
この『雑』は、悪いことをして書いた字じゃない。
夜、鍋を洗い終えて、くたくたの手で、蝋燭の下に一行書く。何を買ったか思い出す力なんて、もう残っていない。
その疲れた一文字が、三十年分、積もっていただけだ。
そして会計士は、その積もった中身を、一度も見に来なかった。月末の合計だけ見て、一割を取っていった。
(取る側に必要な数字だけがきれいに揃ってて、使う側が困る行は、ほったらかし……)
前世の職場と、同じ形だった。残業の時間は書かれず、評価の点数だけが書かれていた。私が辞めた理由も、どこにも書かれていない。だから医局長は、「他所へ行っても同じだぞ」と言えた。
マーサは、しばらく板を見ていた。
それから、ぼそっと言った。
「……あんたの呪文、悪くないね」
そして、五枚目の板を、黙って厨房へ持っていった。




