第159話 単式帳簿の限界
「あんた、うちの帳簿を見たいのかい」
マーサが、帳面の束を胸に抱えて、じろりと私を見た。
「三十年分だよ。見てどうするんだい」
「まず、この店のお金の流れを整理させてください。靴屋さんの監査料を調べるにも、帳簿の読み方を確かめておきたいんです」
「……見せるのは、あんたの炊き出しの赤字のためだよ。靴屋のためじゃない」
「それだけ、ですか」
マーサは、答えなかった。
答えずに、帳面を長机に置いた。乱暴な置き方じゃなかった。
――靴屋の木槌で毎朝目を覚ましていたのは、私だけじゃない。
◇◇◇
帳面は、三十冊あった。一年一冊。
一番古い冊子は、表紙の字が擦れて消えていた。開くと、最初の頁の字が、マーサの字じゃなかった。角ばった、男の人の字だ。
「……これは」
「亭主だよ。最初の三年は、亭主が書いた」
マーサは、四冊目を手に取った。
「四年目の途中から、私の字だ。ほら、途中で変わってるだろう」
同じ頁の、上半分が角ばった字で、下半分が丸い字だった。
金額の桁は、上も下も、ぴったり同じ位置に揃っていた。字が変わっても、そこだけは変えなかったんだ。
私は、頁の端を折らないように、そっと押さえた。
――今から直すのは、計算のやり方だ。この頁に残っている手まで、間違いだなんて言うつもりはない。
◇◇◇
帳簿は、「単式」だった。
『麦、五百G』『塩、二百G』『売り上げ、三千G』。
入ってきたお金も、出ていったお金も、日付順に一列に並んでいるだけ。月末に合計を出して、足りなければ赤字。
(家計簿と同じだ。これが悪いわけじゃない。でも……)
「女将さん。塩、いくらで買ってますか」
「一袋、二百G」
「去年は?」
「百五十だったか、百八十だったか……覚えてないよ。帳面に書いてある」
「書いてはありますけど、去年の塩と今年の塩が、同じ頁にないんです」
私は、二冊を並べて、去年の同じ月の塩を探した。
――百六十G。
「女将さん。塩、去年より二割五分、上がってます」
「塩だけじゃないよ。麦も豆も薪も、全部上がった」
「全部で、いくら上がったか分かりますか?」
「……全部探せば、分かるんだろうけどね」
探さない。探す時間がない。三十年、この人は、鍋の前に立っていた。帳面は、寝る前に一行書くものだった。
「女将さん。会計士様は、監査のとき、どこを見ますか」
「月末の合計だよ。それを十二か月足して、一割」
「仕入れの値段は?」
「見ない。頁をめくって、合計のところだけ指で押さえていくんだ」
……合計だけ。
合計は、単式の帳簿が一番きれいに出す数字だ。
(取る側は、取るのに必要な数字だけ見てる。店が潰れそうな理由は、その「見ない数字」のほうに埋まってるのに)
◇◇◇
「もう一つ、いいですか。監査料って、いくら払ってますか」
「一割だよ。売り上げの」
「金額で、いくらですか」
「帳面に書いてあるよ」
去年の分を探した。十二月の末に、一行だけ。『監査料』。
その金額は――年間の売り上げの、一割より、多かった。
「……一割二分、です」
「は?」
「女将さん、一割二分、払ってます。規程の上限は、一割です」
マーサの手が、止まった。
「……上限って」
「規程に書いてあるんです。『監査料は、年間売上の一割を上限とする』って」
マーサは、自分で帳面を手に取って、その行をじっと見た。
それから、鍋のほうを向いた。
「……三十年、こんなもんだと思ってたよ」
背中が、小さく見えた。
「……三十年、二分ずつ余計に払ってたとしたら。いくらになるんだい」
私は、頭の中で計算しかけて――口を閉じた。
女将さんの背中が、聞きたくない、と言っていた。
数字は、言うときを選ぶ。
◇◇◇
「女将さん。今年の監査は、まだですよね」
「来月だよ。毎年、冬の終わりに来る」
「来月までに、帳簿を直します。払う額が、規程どおりになるように」
「……会計士様に、そう言うのかい」
「言いません。帳簿を、見せます」
言う必要はない。規程の「上限一割」と、帳面の「一割二分」を、並べて置けばいい。
並べた数字のほうが、勝手に喋ってくれる。
私は、黙って座っていればいい。
――そこまで考えたとき。
頭の中で、何かが、かちっとはまった。
(……あ)
『黙らない方法は、黙らないこと以外にもある』
ヘルガさんの言葉だ。坂道で三回考えても、分からなかったやつ。
(声で言えないなら――紙に言わせればいいんだ)
私が黙って座っていても、机の上の帳簿は、ずっと喋り続けてくれる。
黙ることと、負けることは、別なんだ。
二十年、受付に座ってきたあの人は、私の震える指を見て、それだけを教えてくれたんだ。
◇◇◇
「女将さん。今年の分、別の書き方で書き直していいですか」
「別の?」
「はい」
私は、板を裏返した。まだ何も書いていない面に、縦に一本、線を引く。
左と、右。
「左が『借方』、右が『貸方』です。帳簿の左と右の名前で、借金って意味じゃありません」
「……借金じゃないのに、『借方』って言うのかい」
「はい」
「……あんたの資格の世界は、名前で嘘をつくんだね」
反論できなかった。
前世でも、同じ質問をされて答えられなかった簿記の先生を、私は三人知っている。




