第158話 監査料で潰れる商店
東三番通りの角に、小さな靴屋があった。
店主は、白髪交じりの老人だった。
毎朝、まだ市場の店が開く前から、店先に腰を下ろして革を叩いている。
トン、トン、トン。
規則正しい木槌の音が、狭い路地に響く。
その音を聞くと、私は朝が来たのだと思った。
夏のあいだ、私は近くの物置で寝起きしていた。薄い板壁の向こうから木槌の音が聞こえると、寝台から起き上がり、解体場へ向かう支度を始めた。
靴屋の主人が直しているのは、いつも古い靴だった。
この下町では、新しい靴を買える者は少ない。
底が擦り切れれば革を継ぎ足し、縫い目が破れれば糸を通し直す。
一足の靴を何年も履く。
老人は、そんな靴を一足ずつ修理して暮らしていた。
会えば軽く挨拶する程度の仲だった。
それでも、あの木槌の音は、いつの間にか私の日常の一部になっていた。
だから、その朝。
音が聞こえなかったことに、私はすぐ気づいた。
目を覚ましたときには、窓の隙間から朝日が差し込んでいた。
いつもなら聞こえるはずの木槌の音がない。
風邪でもひいたのだろうか。
そんなことを考えながら、私は靴屋へ向かった。
そして、店の前で足を止めた。
扉に、厚い板が何枚も打ちつけられていた。
入口を塞ぐように、釘で固定されている。
板の中央には、一枚の紙が貼られていた。
資格院の紋章が押された、正式な通知書だった。
『営業停止通知
王国公認会計士による監査の結果、所定の監査料が未納であることを確認した。
よって、当店舗の営業を停止する』
「……営業停止?」
私は思わず声に出した。
古い靴を修理しているだけの店が、なぜ営業停止になるのだろう。
「魔法士さんかい」
声がした。
店の脇の路地に、老人が座っていた。
いつもの革の前掛けをつけたままだった。
しかし、手に木槌はない。
「おはようございます。これは、いったい……」
「見てのとおりだ。店を閉められた」
「何か悪いことをしたんですか」
「悪いこと、か」
老人は乾いた笑いを漏らした。
「強いて言えば、金がなかったことだろうな」
私は隣にしゃがんだ。
「詳しく聞かせてもらえますか」
老人は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと話し始めた。
「年に一度、資格院から会計士様が来る。店の売り上げを調べて、監査料を取るんだ」
「監査料はいくらですか」
「年間売り上げの一割だ」
「一割……」
「去年までは払えた。だが今年は革の値段が上がってな。修理代まで値上げすれば客が来なくなる。だから、ほとんど儲けが出なかった」
老人は自分の手を見下ろした。
長年革を叩いてきた指は太く、親指の付け根が平らになっていた。
「それでも、売り上げの一割を払えと言われた。儲けがなくても、売り上げがある限り金を取られる」
なるほど。
監査料は利益ではなく、売り上げを基準に計算される。
例えば、年間売り上げが五十万Gなら、監査料は五万Gになる。
材料費や家賃を払って手元に二万Gしか残らなくても、五万Gを請求されれば払えるはずがない。
「それで、払えないと伝えたんですね」
「ああ。すると会計士様が、別の方法があると言い出した」
「別の方法?」
「上納金だ」
私は眉をひそめた。
「上納金?」
「監査料が払えないなら、資格院の財務部に特別な上納金を納めろと言われた。それを払えば、監査は問題なく通る、と」
「その上納金はいくらだったんですか」
「監査料の倍だ」
「……倍?」
思わず聞き返した。
「払えない人に、もっと高い金を要求したんですか」
「そういうことだ」
「それでは意味がありません」
「わしもそう言ったよ」
老人は力なく笑った。
「そしたら、金がないなら別の方法で払えばいい、と言われた」
嫌な予感がした。
「別の方法とは?」
老人はすぐには答えなかった。
通りの向こうを見つめ、それから小さな声で言った。
「孫だよ」
◇◇◇
「孫を、資格予備校に入れろと言われた」
「資格予備校?」
「財務部が紹介する学校だ。そこで資格の勉強をさせれば、上納金の支払いを猶予する、と」
私は老人の顔を見た。
「どうして予備校に入れると、上納金を待ってもらえるんですか」
「わしにも最初は分からなかった。だが、話を聞くうちに分かった」
老人は膝の上で両手を握った。
「孫の学費は財務部が立て替えるそうだ。資格を取って働き始めたら、少しずつ返せばいい、と」
「資格を取れなかった場合は?」
「借金だけが残る」
「その借金は、誰が返すんですか」
「孫と、保証人になったわしだ」
私は黙った。
ようやく、仕組みが見えてきた。
監査料を払えない店主に、さらに高額な上納金を要求する。
当然、払えない。
そこで、資格院と関係のある予備校を紹介する。
学費を立て替えるという名目で借金を負わせ、家族を返済の責任から逃れられなくする。
つまり、店主がどちらを選んでも、財務部は金を請求できる立場になるのだ。
「予備校には、孫が自分で通うと決めたんですか」
「……わしが頼んだ」
老人の声が震えた。
「店を守りたかった。孫が資格を取れば、あの子にも将来が開けると思った」
私は何も言えなかった。
「予備校の先生は言ったよ。一年で資格が取れる、と。卒業すれば、良い仕事を紹介する、と」
「その予備校の名前は?」
老人が答えた名前を聞いて、私は息をのんだ。
ブレナで見た、あの闇予備校と同じ名前だった。
宿の裏にある倉庫の二階。
窓の少ない部屋に二十人ほどの生徒を集め、壁に木炭で書かれた過去問をひたすら写させていた。
私が見た限り、資格試験の仕組みを理解させる授業ではなかった。
同じ問題を覚え込ませるだけだった。
もちろん、それだけで全員が不合格になるとは限らない。
だが、一年で必ず資格が取れると保証できるような場所でもない。
「魔法士さん」
老人が私を見た。
「あんたは資格を十五も持っているそうだな」
「ええ」
「なら、教えてくれ」
老人は深く頭を下げた。
「うちの孫は、一年で資格を取れるのか」
私は答えられなかった。
試験の種類も、孫の学力も、勉強に使える時間も分からない。
そんな状態で、合格できると約束することなどできない。
だが、正直にそう伝えることが、この老人にとってどれほど残酷なことかも分かっていた。
「……実際にお孫さんの勉強を見てみなければ、分かりません」
ようやく、それだけ言った。
老人はしばらく私を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「そうか」
肩が落ちた。
だが、次に出てきた言葉は意外だった。
「……あんたのほうが、信用できるな」
「え?」
「予備校の先生は、一年で必ず取れると言った。何も確かめずにな」
老人は苦笑した。
「わしは長く商売をしてきた。品物も見ずに、絶対に大丈夫だと言う商人ほど、信用できんものはない」
私は老人の手を見た。
その手は、一足の靴を何度も修理してきた手だった。
資格を持たなくても、何十年も同じ仕事を続けてきた。
その技術が、監査料を払えないという理由だけで、街から消されようとしている。
「ご主人。ひとつ、聞かせてください」
「何だい」
「この店だけが、営業停止になったんですか」
老人は首を横に振った。
「去年、この通りで閉められた店は三軒。今年はうちで五軒目だ」
「そんなに?」
「乾物屋、縄屋、鍛冶屋……みんな似たような理由さ」
「閉められた店は、その後どうなったんですか」
「いくつかは、資格院の財務部に買い取られた。ずいぶん安い値段だったそうだ」
財務部。
その名前を聞いて、私は以前の宴を思い出した。
卓に置かれた灰色の塩を、二度舐めていた男。
資格院の財務部に所属する、あの男だ。
「買い取られた店は、今どうなっていますか」
「乾物屋は空き家のままだ。縄屋は上町の商会の倉になった」
「商会の倉……」
「ああ。荷車が何台も出入りするようになったよ」
私は通りの先を見た。
小さな店が閉まり、代わりに大きな倉庫が建つ。
たまたま店主たちの商売がうまくいかなくなったのだろうか。
それとも、誰かが店を閉めさせ、その土地を集めているのだろうか。
まだ証拠はない。
しかし、調べる理由は十分にあった。
◇◇◇
私は物置へ戻り、資格図鑑を開いた。
『王国公認会計士(S級)』
資格の説明を、最初から読み直す。
権限の項目には、こう書かれていた。
『帳簿監査』
『監査結果に基づく営業停止の勧告』
続いて、監査料の規定を確認した。
『監査料は、被監査者の年間売上の一割を上限とする』
私は指を止めた。
「……上限?」
もう一度読んだ。
売り上げの一割を徴収する、とは書かれていない。
一割を上限とする、と書かれている。
この二つは、同じ意味ではない。
年間売り上げが五十万Gの店なら、監査料は最大五万Gまで認められる。
しかし、必ず五万Gを取らなければならないという規定ではない。
実際の監査料をどう決めるのか。
どんな店でも同じ割合なのか。
そうした細かい規程を確認する必要があった。
さらに私は、上納金について調べた。
『上納金』
該当なし。
『特別納付金』
該当なし。
『監査料の代替納付』
該当なし。
「……ない」
何度調べても、会計士が話していた上納金の規定は見つからなかった。
私は椅子の背に体を預けた。
監査料を払えない店主に、規程にない上納金を要求する。
払えなければ、財務部が紹介する予備校へ家族を通わせ、借金を負わせる。
それでも店を維持できなければ、財務部が土地と建物を安く買い取る。
もしこれが組織的に行われているなら、偶然では済まされない。
だが、もっと気になることがあった。
私は資格図鑑の最初のページに戻った。
『監査結果に基づく営業停止の勧告』
「……勧告?」
私はその二文字を見つめた。
勧告。
命令ではない。
普通、勧告とは、相手に一定の対応を求めることだ。
従うよう求めることはできても、それだけで強制執行する権限が生まれるわけではない。
少なくとも、この資格の説明に書かれているのは、営業停止を勧める権限までだった。
「それなのに、店の入口を板で塞いだ……?」
私は朝見た光景を思い出した。
扉に打ちつけられた厚い板。
資格院の紋章がついた営業停止通知。
あれは、誰が命じたのだろう。
王国公認会計士には、営業停止を勧告する権限がある。
だが、実際に営業を禁止し、店を封鎖する権限まであるとは書かれていない。
ならば、その権限を持つ別の役職が存在するはずだ。
私は図鑑の項目を探し始めた。
営業許可。
商業監督。
行政執行。
一つずつ確かめる。
だが、どの項目にも、会計士が監査料の未納を理由に店を直接封鎖できるという規定は見つからなかった。
私は以前、第八条第二項を巡って規程を調べたときのことを思い出した。
あのときも、問題になったのは、規程に何が書かれていて、何が書かれていないかだった。
資格院の人間が当然のように語るルールと、実際の規程が一致するとは限らない。
そのことを、私はすでに経験していた。
「……本当に、会計士の判断だけで店を閉められるのか?」
私は紙に書いた。
『会計士にあるのは営業停止の勧告権』
『実際に封鎖した者は誰か』
『封鎖を認める規程はどこにあるか』
この三つを確かめなければならない。
ただし、規程が見つからないだけで違法と断定することもできなかった。
別の法令で権限が与えられている可能性もある。
だからこそ、調べる必要がある。
◇◇◇
その夜、私は物置の壁に立てかけてある板に、調べたことを書き出した。
『東三番通りの靴屋』
『監査料:年間売上の一割を請求』
『上納金:監査料の二倍』
『上納金の法的根拠:未確認』
『孫:闇予備校へ入学』
『学費:財務部による立て替え』
『営業停止:会計士の勧告と、実際の封鎖権限を要確認』
書き終えてから、私は別の疑問に気づいた。
「……そもそも、監査料の金額は正しいのか?」
老人は、一割を取られたと言っていた。
しかし、それは会計士が提示した金額である。
売り上げを正確に調べたうえで計算したものなのか。
材料費が高騰している状況で、減免する仕組みはなかったのか。
さらに言えば、会計士が徴収した監査料は、どこへ送られているのだろう。
資格院の正式な収入になっているのか。
それとも、財務部の誰かの懐に入っているのか。
考えるべきことは増える一方だった。
私は板の右端に、もう一行加えた。
『靴屋の帳簿と、資格院の徴収記録を照合する』
問題は、どうやってその帳簿を確かめるかだった。
靴屋の入口には板が打ちつけられている。
店の中に入ることさえできない。
私には、その板を勝手に剥がす権限がなかった。
まして、資格院の帳簿を調べる権限などない。
権限がなければ、何もできないのか。
私は資格図鑑を見下ろした。
これまでも、何度も同じ壁にぶつかってきた。
資格がなければ働けない。
資格がなければ入れない。
資格がなければ発言することさえ認められない。
この王国は、何をするにも資格を要求する。
だが、裏を返せばどうだろう。
必要な資格さえ見つければ、今までできなかったことができるようになる。
「……監査を、監査する資格はないのか?」
口に出してみた。
会計士が店を監査する。
ならば、その会計士が正しく仕事をしているか、調べる者がいてもおかしくない。
資格院の財務部を調査する資格。
不正な徴収を調べる資格。
行政機関の判断を見直す資格。
そんなものが、この膨大な資格図鑑のどこかに存在するかもしれない。
私は索引を開いた。
まだ答えは見つかっていない。
だが、初めて調べるべき方向が見えた。
この国では、資格を持つ者が強い。
だからこそ、資格を持つ者の不正を止める仕組みが必要なはずだ。
そうでなければ、誰も彼らを止められない。
◇◇◇
蝋燭が短くなっていた。
一本十G。
パン一つと同じ値段である。
もう一本灯せば、それだけ明日の食費が減る。
私は少し迷い、新しい蝋燭に火を移した。
昼は解体場と窯の仕事がある。
規程を調べられるのは夜だけだった。
靴屋の主人には、店を閉められたために時間がある。
しかし、何十年分もの複雑な規程を読み解く知識がない。
私には、その規程を読み解くための経験がある。
だが、使える時間が少ない。
ならば、寝る時間を削ればいい。
私は図鑑の索引を一つずつ追い始めた。
『監査』
『徴収』
『異議申立て』
『不服審査』
ページをめくる音だけが、物置に響く。
しばらくして、ある項目で指が止まった。
『監査決定に対する異議申立て』
「……あった」
私は身を乗り出した。
そこには、監査結果に不服がある場合、一定の条件を満たせば再審査を請求できると書かれていた。
つまり、会計士の判断が常に最終決定になるわけではない。
ただし、申立てが営業停止の効力を止めるのか、誰が申請できるのかは、別の規程を確認する必要がある。
それでも、希望はあった。
あの靴屋の主人は、もう何もできないと思い込んでいた。
だが、まだ試せる手段が残っているかもしれない。
私は規程の番号を板に書き写した。
そして、もう一度、靴屋の監査料について考えた。
主人が請求された金額は、正しかったのか。
もし、資格院が認める額より多く徴収されていたら。
もし、その差額が何年も積み重なっていたら。
私は翌朝、主人に過去の納付記録が残っていないか尋ねることにした。
帳簿を見ることができれば、少なくとも請求額と実際に納めた額は確かめられる。
あとは、それを資格院側の記録と照らし合わせる方法を探せばいい。
木槌の音が消えた理由を知っただけでは、何も変わらない。
あの音を、もう一度鳴らしてもらいたかった。
だから私は、図鑑を閉じなかった。
このときの私は、まだ知らなかった。
靴屋の古い帳簿を調べた先に、四万二千Gという不可解な金額が現れることを。
そして、その金額が、一軒の靴屋だけでは終わらない問題につながっていることを。




