第16話 下痢の止まった春
変化は、静かに来た。
種蒔きが終わり、畑が緑を帯び始めた頃――例年なら、村に「春の腹下し」が回り始める頃である。雪解け水が溝を溢れさせ、井戸が甘くなる(と村では言う。今思えば、あれは汚染の味だった)季節。去年はこの時期、寝込んだ子どもが六人いたと、ヒルダの帳面にある。彼女は字が書けるので、看取りと病人の数を、何十年もつけていたのだ。
今年は、二人だった。
しかもその二人も、数日で床を離れた。木札のとおり、母親たちが湯冷ましを匙で運んだからである。リーゼの母が井戸端でその話をすると、他の母親たちが競うように自分の家の「匙の数」を報告し合った。看病が、祈りから、手順に変わり始めていた。
「六人が、二人」
ヒルダは帳面を膝に置き、囲炉裏の火を見ながら言った。私は例の「水」の頁――『下水清掃士』教本の公開部分を、約束どおり読み上げに来ていた。
「五十年で、初めて見る数字だよ。……ねえ、レオン。あんた、これをどこで覚えた」
来る、と思っていた問いだった。ヒルダは村の誰よりも、私の知識の「出所のなさ」に気づいている。行き倒れの記憶喪失の少年が、石灰と沸騰と、匙一杯の塩を知っているはずがないことを。
「思い出せないんです。ただ、頭の中に、あるんです。誰かに習った気がするのに、顔が浮かばない」
半分は、嘘だ。もう半分は――神様の顔は光の塊だったので、浮かばないというのは事実である。
ヒルダは長いこと私の顔を眺め、それ以上は問わなかった。代わりに、帳面を一枚破り、囲炉裏の火で燻して柔らかくし、私に差し出した。
「なら、忘れる前に書きな。石灰の量、湯冷ましの塩の量、匙の運び方。あたしが死んだら、この村の『なぜ』が、また消える。……今度は、消さないよ」
私はその夜、破られた帳面の頁に、木炭で書けるだけのことを書いた。書きながら、妙なことに気がついた。前世の私は、覚えたことを書き出すのが好きではなかった。ノートは自分だけの武器で、要点をまとめた紙を同期に貸すのは、いつも少し惜しかった。
今は、一行書くごとに、身体が軽くなる。
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ステータスの隅で、伸び悩んでいた数字が、そっと動いた。
数日後の夕方、事件がひとつあった。
水汲みに来た隣村の女が――ハルムの井戸は街道沿いの共同井戸を兼ねている――木札と白い溝を見て、村の女たちに尋ねたのだ。あれは何か、と。女たちは我先に説明した。石灰。土手。湯冷まし。六人が二人。隣村の女は目を丸くし、「うちの村にも、誰か教えに来てくれないか」と言った。
その場に私はいなかった。話を運んできたのは、例によってリーゼである。
「で、母さんたちが勝手に、『春が終わったらレオンをやる』って約束しちゃったんだけど。あんた、行くの? 隣村」
「行く。行くが、順番がある。先に、ブレナで下水清掃士を取ってからだ」
「は? 別に資格なんかなくても、石灰の撒き方くらい教えられるでしょ」
もっともである。もっともなのだが。
「隣村で、俺は行き倒れですらない。ただのよその若造だ。よその若造の言うことと、『王国認定・下水清掃士』の言うことなら、どっちが井戸を任せてもらえる?」
リーゼは口を開き、閉じ、悔しそうに認めた。
「……資格のほう」
「だろう。資格ってのは、たぶん、そういう時のためにある。知らない者同士が、手っ取り早く信用を貸し借りするための……ええと」
「あー、はいはい、分かった分かった。語りだすと長いのよ、あんたは」
リーゼは手をひらひら振って、話を打ち切った。打ち切ってから、土手の上に腰を下ろし、夕日に染まる畑を眺めて、ぽつりと言った。
「ペーター、あれから一度も腹壊してないの」
知っている。毎朝、牛追いの道で会うたび、あの七歳は今日の快便を私に報告してくるのだ。誇らしげに。
「だから、その。……あー、もう」
リーゼは立ち上がり、スカートの土を払い、桶を担ぎ、私に背を向けたまま、早口で言った。
「ブレナの試験、受かりなさいよね。二つとも」
ありがとう、の五文字は、最後まで出てこなかった。出てこなかったが、私の耳には、それ以上のものが届いていた。




