第15話 石灰と煮沸
村人E級の刻印を得て、私は正式に「共同の井戸に対して口を出せる村人」になった。
なった、ので、出した。
「井戸の周りに、これを撒かせてください」
寄り合いの席で、私は麻袋を掲げた。中身は生石灰。領主町との行商のついでに、ヨナスに頼んで仕入れてもらったものだ。石灰岩を焼いただけの、この世界でも安い資材である。窯場のあるブレナ近郊なら、麻袋一つで八十G。
「汚水の溜まりと、溝の縁に撒きます。それから、できれば……井戸と溝の間に、土を盛らせてほしい。雨の日に、溝の水が井戸側へ溢れないように」
今度は、誰も笑わなかった。代わりに、困惑した。
「石灰なんぞ撒いて、井戸の神様が怒らんか」「白い粉なんて、呪いみたいで気味が悪い」「そもそも、なんでそんなことする必要がある」
最後の問いに、私は用意してきた答えを出した。
「掟の第七条です。『井戸の縁で洗い物をしてはならない』。……ご先祖は、井戸に汚れた水が入ると悪いことが起きると、知っていたんだと思います。理由は伝わっていませんが、掟は残った。私がやりたいのは、第七条の続きです。洗い物どころか、溝の水そのものを、井戸に近づけない」
掟を盾に取る。この一月、村人E級の勉強で学んだ、この村での唯一の論法だった。よそ者の理屈は聞かれないが、ご先祖の掟なら聞かれる。
沈黙を破ったのは、意外な声だった。
「やらせてやんな」
戸口の柱にもたれていた、ヒルダだった。寄り合いに薬草婆が顔を出すのは、誰かが死にかけている冬くらいのものである。座がざわめいた。
「あたしゃ五十年、この村の腹下しを看てきた。効いた祈祷は一度もないが、去年の冬、この子の白い粉と湯冷ましは効いた。ペーターは今、そこで洟垂らして生きてる。……神様ってのはね、案外、掃除好きだよ」
村長オルバンが唸り、男衆と目を見交わし、最後に折れた。
「井戸の水に、粉が入らんようにだけしろ。それと、盛り土は男衆に手伝わせる。お前の細腕じゃ夏までかかる」
翌日から、作業が始まった。
汚水溜まりの縁に石灰を撒くと、饐えた臭いが、目に見えて弱まった。溝の縁にも薄く撒く。井戸と溝の間には、男衆が半日で、膝の高さの土手を盛ってくれた。作業の間、村の子どもたちが遠巻きに見物し、ペーターが「これはね、呪いじゃなくて、そうじ!」と解説して回った。良い広報担当である。
仕上げに、私は井戸端に、木の札を立てた。ヒルダに読み上げてもらいながら、字の読めない者にも伝わるよう、絵を添えた。
一、汲んだ水は、子どもと病人には、一度沸かして冷まして飲ませる(鍋と湯気の絵)。
二、溝に物を捨てたら、上から石灰をひと掴み(白い粉の絵)。
三、井戸の縁での洗い物は、掟第七条により禁止(第七条は全員言えるので、字だけ)。
薪の問題は残った。毎回沸かす薪は、確かに重い。だから札には「子どもと病人には」と限定を付けた。全部は変えられない。変えられるところから、である。
夕方、土手の仕上がりを検分していると、リーゼが水桶を提げてやってきた。彼女は真新しい土手と、白く縁取られた溝と、木の札を順に眺め、それから、いつもの調子で言った。
「ねえ。これで、ほんとに腹下し、減るの?」
「減ると思う。ただ、正直に言うと」
私は、これも用意していた答えを言った。誰かに聞かれたら、必ずこう答えると決めていた。
「確かめるには、時間がいる。今年の夏、去年より腹を下す子が減っていたら、効いたということだ。減らなかったら、俺の考えが足りなかったということだから――そのときは、次の手を考える」
リーゼは「ふうん」と言い、桶に水を汲んだ。汲んでから、思い出したように付け加えた。
「今朝、母さんがね。『あの土手、なんで今まで誰もやらなかったんだろうね』って」
それだけ言って、彼女は帰っていった。
私は暮れていく井戸端に一人残り、白い縁取りの溝を眺めた。答えは、たぶんこうだ。誰も、やらなかったのではない。「これは自分の仕事だ」と言える者が、いなかっただけだ。
図鑑を開く。『下水清掃士(E級)』。試験地、領主町ブレナ。春の試験期。
剣士試験と、同じ町。同じ季節。
受験料五百G。剣士の三千Gと合わせて三千五百G。私の全財産は、薪割りと草鞋編みの内職で貯めた、二百三十Gだった。




