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異世界資格マスター ~最弱村人から始める資格無双。試験分析EXで世界をアップデートします~  作者: 東雲 諒杏
第五章「貴族の宴と神殿の影」

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第156話 ハインリヒ:帳簿の上の名前


 財務理事の私室には、帳簿があった。


 資格院の帳簿ではない。ハインリヒ・フォン・ロスチャイルドの、個人の帳簿である。


 三十年分あった。公式の帳簿に載らないものが、ここには載る。


 彼は手帳を開いた。宴の夜に書いた名前を見た。


『レオン・シラハネ。魔物調理師C級。

 流通先、銀のスライム亭。

 ……百万Gを、断った』


 帳簿のある頁に、転記した。


 その頁には、名前が並んでいた。三十年分である。


 断った者。逆らった者。規程の隙間を読んだ者。


 名前の横に、数字が書いてある。彼らが資格院に与えた損失の見積もりだった。


 上の方の名前には、横線が引かれている。


 横線は、もう数えなくてよくなった者である。


 引いた理由は、名前の横に小さく書いてある。『商会へ』『北へ』『失踪』『死亡』。


 三十年で、二十二人いた。


 二十二人のうち、横線のないものは三つだった。


 新しい名前の横に、彼は数字を書いた。


『一万八千人分。半年。……格の崩れ』


 数字を書いた後、ハインリヒは名前の方を見た。名前の上には、まだ線を引かなかった。


 筆の先を整え、帳簿の端へ置く。考える時間の長さは、紙には残らない。


 新しい名前だけが、乾くまで少し濃い色をしていた。


◇◇◇


「……規程を、隙間から読む者」


 規程は、彼が書いた。三十年前。総長に命じられて。


 総長は「鎖を作れ」と言った。


 彼は作った。二十四条。


 流通先を書き忘れたのは、本当だった。当時、下町に肉を流す者などいなかった。


 いないものは、書かない。


 いた。


 三十年目に、一人。


 その一人は、受験料の話まで聞いてきた。落ちた七十七人の名が残っていないと言った。


 残っていれば数えられる、と言った。


 数えられるものは動かせる、とも言った。


 ――それは、彼が三十年やってきたことだった。数えて、動かす。帳簿の上で。


 同じ方法を、下から使う者が出た。


 下から使われると、数字の意味が変わる。


 数えて動かすのは、動かす側に金がある場合の方法である。金のない者が数えても、動かない。


 あの平民は、金を持っていない。一万五千Gを五十二日で作った。


 持っていないのに、動かした。


 動いたのは、解体場の一つと、第八条第二項と、下町の路地である。


 どれも、彼の帳簿には数字のついていない項目だった。


◇◇◇


 総長の執務室で、彼は一つ見たものがある。


 総長が報告書を読むとき、手袋を外していた。


 右手の甲に、傷があった。白く引きつれた傷である。


 石灰の傷だった。


 ハインリヒはそれが何の傷か知っていた。知っていて、三十年、口にしていない。


 それが財務理事の資質だった。


 資質で三十年、彼はこの部屋にいる。


 石灰の傷は、井戸の消毒をした手にできる。消毒をするのは、下水清掃士か、衛生管理士か、あるいは資格のない者である。


 総長の保有資格は三十二。そのうちに、下水清掃士は入っていない。


 入っていないものの傷が、右手の甲にある。


(……総長は、放置せよと言った)


 報告書の余白に、総長はいつも同じ四文字を書く。『措置、不要』。


 彼は放置しなかった。


 改定。春の理事会。第十五条。


 それは放置ではない。だが、総長の言葉に逆らってもいない。総長は措置を不要と書いた。改定は措置ではない。規程の整備である。


 規程の隙間を読むのは、自分も同じだった。


 商会の今月の報告を開いた。


『魔物肉、貴族向け卸、前月比減。

 下町で無償の魔物肉炊き出しが話題。

 貴族の一部が「オークにドラゴンの塩」を宴で求める』


 指先を見た。


 宴の夜、灰色の塩をつまんだ指である。


 あの塩は、旨かった。


 彼はそれを認めていた。認めて、帳簿には書かなかった。


 書いたのは、別の行である。


『香味塩。商会で製法を確保せよ。

 あの平民に頼らずに』


 確保できるかどうかは、分からない。炭は五万Gの舌からしか出ないと、あの平民は言った。言いながら、聞かれれば教えると言った。


 教えると言われたものを、こちらから聞きに行くのは、負けである。


 負けを帳簿に書く欄は、ない。


 三十年、彼は負けの行を作らなかった。作らなかったのは、負けなかったからではない。


 欄を作らなければ、数えずに済む。


 最後に、もう一通、封書を開いた。


 叔父からの私信である。王弟ヴァルター大公爵。


『ハインリヒ。王女の周りに平民が近づくのを防げ。

 特に、規程を読む平民を。

 総長は鎖に満足している。鎖はいずれ切れる。

 切れる前に、次を用意しろ』


 王女。


 叔父がその言葉を書いたのは、三通目である。三通とも、同じ一文から始まっていた。


 王女の周りに、平民が近づくのを防げ。


 なぜ王女なのかは、書かれていない。書かれていないものを、彼は三度受け取った。


 書かない者が、書く者を使う。それが、この国の文書の形だった。


◇◇◇


 彼は帳簿を閉じた。


 閉じる前に、新しい名前の行をもう一度見た。


 横線は、引いていない。


 引ける見込みを、彼は三つ数えた。


 一つ。春の理事会で第十五条が変わる。変われば、下町への流通は止まる。止まれば、あの平民の名の横に『解決』と書ける。


 二つ。商会が香味塩の製法を確保する。確保すれば、価値が消える。


 三つ。本人が、百万Gを受け取る。


 三つのうち、三つ目は消えたと彼は見ていた。消えたと見た理由は、断り方である。


 断るとき、あの平民は理由を二つ挙げた。暫定監督と、流通の届け。


 金額のことは、一度も言わなかった。


 金額を言わない者は、金額では動かない。


 帳簿の上で三十年、それだけは外したことがなかった。


 外していないなら、残るのは一つ目と二つ目である。


 春までに、どちらかを済ませる。


 済ませてから、横線を引く。


 引いた横線の理由の欄に、何と書くかは、まだ決めていなかった。『商会へ』でも『北へ』でもない言葉が、要るかもしれない。


 三十年、彼は四つの言葉で足りていた。


 足りなくなるのは、欄の外に出た者が現れたときである。


 現れた者の名を、彼は今夜、自分の字で書いた。


 書いた字は、三十年、同じ角度で傾いていた。


 封書を、火にくべた。


 紙が縮んで、黒くなった。


 黒くなったものから、煙が立った。


 煙の匂いを、彼は知っていた。宴の夜、広間に満ちた匂いである。


「……鎖は切れぬ」


 彼は火を見ていた。


「切れる前に、太くする」


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