第155話 ガルム:橋の上の獣人
冒険者ギルド本部の夜勤は、獣人の仕事だった。
人間の職員は夜、家に帰る。獣人は夜目が利く。だから夜勤は獣人に回る。
誰もそれを差別とは呼ばない。合理的な配置と呼ぶ。
ガルムは二十年、その合理的な配置の中にいた。
夜勤の仕事は三つある。緊急依頼の受付。北からの伝令の受け取り。それから、朝までの帳面の整理である。
帳面の整理は、人間の職員が昼に書いたものを数え直す仕事だった。
数え直すだけである。書き足すことは、許されていない。
二十年、彼は数え直してきた。
ガルムは、行の端へ爪を寄せた。書き足すのではない。どこまで数えたか、見失わないためだった。
爪を離せば、紙には何も残らない。
彼はもう一度、最初の行へ目を戻した。昼の職員が帰った後の部屋で、紙をめくる音だけが続いた。
◇◇◇
夜、彼は橋の上に立つ。
上町と下町を結ぶ橋である。橋の上からは、両側が見える。
上町。魔導ランプの白い光。石畳。溝がない。
下町。木骨の家。藁葺きの屋根。溝の匂い。
だが今夜、東三番通りの方角から、別の匂いが来ていた。
肉と、塩と、草の匂いである。
ギルドの荷車が、あの通りに毎日入っている。埋設費用の削減分で出した荷車だ。
荷車を出す決裁を、彼は自分の印で済ませた。
上に回せば、三月かかる。三月かかるあいだに、解体場は閉鎖されていたかもしれない。
印を押した日の夜、彼はこの橋の上で、自分の判断の理由を考えた。
考えて、言葉にならなかった。
「……当たらん小僧が」
鼻を鳴らした。
◇◇◇
二十年前、この橋の下町側のたもとで、彼は騎士資格の要項を読んだ。
読んだのではない。読める者に読んでもらった。
たもとに座っていた、字の書ける男に、銅貨二枚を払って読んでもらった。
『受験資格:人間種およびエルフ種に限る』。
そう書いてあると聞いた。聞いたとき、彼は要項を三度見た。見ても、字は字のままだった。
マーゴがそれを見ていた。弟の妻になる前の、まだ十八の娘だった。
彼は泣いた。大きな身体で、橋のたもとで。
二十年、その要項は変わっていない。
人間種およびエルフ種に限る。獣人は、騎士資格を受けられない。
受けられない理由は、どこにも書いていない。書いていないので、問うた者もいない。
七年前、ブレナで試験官になった。獣人が、人間の剣士の合否を決める。
皮肉だと思った。思って、七年やった。
そして去年の春、剣士D級の実技で、尻尾を読まれた。
あの小僧は、俺の癖を闇予備校から買わなかった。井戸端で一度見ただけで読んだ。読んで、一本、置いた。
置いて、その日の午後に下水清掃士を受けた。
「……獣人の俺に、紹介状を頼んだ最初の人間だ」
いや、頼まれたのではない。俺が押しつけた。
押しつけた理由を、ガルムは自分でまだ言葉にしていない。
言葉にしないまま、七年前から考えていることが一つある。
もし要項に『獣人種を除く』と書いた者が、ただ書き忘れの逆をやっただけだとしたら。
誰かが隙間に入るのを防ぐために、わざわざ書いたのだとしたら。
書いた者の名は、要項には載っていない。
◇◇◇
懐に、手紙があった。
北から来た。兄のヴォルフガング。傭兵団長である。
字は、団の書記が書いている。
『魔素が濃くなっている。砦の半分は空だ。騎士は来ない。魔物は増えている。……北は、そろそろ、駄目だ』
北は、駄目だ。
あの小僧は下水を掃除し、井戸を消毒し、解体場の廃棄肉を下町に運んでいる。誰も頼んでいないのに。
北の砦で、俺たちは討伐した魔物をその場で焼いて食った。
人間の騎士はそれを野蛮と呼んだ。呼びながら、糧食が尽きると、獣人の焼いた肉を黙って食った。
あの小僧が下町に運ぶ肉は、俺が砦で食った肉だ。
「……北に、あいつがいれば」
言いかけて、止めた。
北は勇者と騎士の仕事だ。当たらん剣士の仕事ではない。
橋の下を、上町の下水路の水が流れていた。
五百年前、誰かが作った石造りの水路である。入口に字が刻まれていることを、ガルムは知っていた。
読めなかった。
読めないものは、この町に多い。獣人に字を書く習いがないからだと、人間は言う。習いがないのではない。習う場所がなかった。
五百年前の水路の入口の字は、短い。十字ほどである。
人間の字でもないらしい、と昔、誰かが言っていた。
読める者を探して、見つからなかった。見つからないまま、二十年、彼は夜ごとその入口の上に立っている。
東三番通りの匂いが、風で少し強くなった。
あの小僧は、鼻で分ける方法を紙に書くと言った。書いて、下町の子どもに読ませると言った。
考えると答えた。
考えている。二十日、考えている。
砦で、親は子の鼻に毒を近づけて、嫌がったら褒める。
順番は、ある。弱い毒から強い毒へ。甘い匂いから、喉を刺す匂いへ。
順番を言葉にすれば、十行で済むかもしれない。
十行で済むものを、三千年、誰も書かなかった。
書かなかったのは、書く習いがなかったからだと、彼は二十年そう思ってきた。
今は、別の考えが出ていた。
書けば、人間が使う。使えば、鼻の値が下がる。
鼻の値が下がれば、夜勤が獣人に回る理由も、一つ減る。
減って困るのは、二十年この配置の中にいた自分である。
考えていることを、彼は誰にも言っていない。
マーゴにも言っていない。弟の子が、来年、十五になる。十五になれば、資格を受けられる年である。
受けられるものは、冒険者F級と、解体士の認定と、それから下水清掃士だった。
騎士は、受けられない。
あの小僧は、下水清掃士を受けた。受けて、井戸を消毒して、報告書を三十通書いた。
書いた報告書で、下町の赤腹病が週単位で減ったと、衛生局の局員がギルドの酒場で喋っていた。
資格は三つ、同じものである。獣人の子が受けられるものと、あの小僧が受けたものは、同じ名前だった。
同じ名前のものを、片方は使い、片方はまだ使っていない。
使い方を書いた紙が、もしあれば、弟の子は十五の春に読める。
読める紙は、誰かが書かなければ、どこにもない。
書くと言った人間が、一人だけいる。
獣人に字を習わせろとは、まだ言っていない。
言われていないことを、ガルムは自分で考え始めていた。考え始めたのは、荷車の決裁に印を押した夜からである。
印は、自分の名で押した。名で押したものには、名が残る。
夜が明けるまで、彼は橋の上に立っていた。




