第154話 年収四千万G
炊き出しは、十日続いた。
十日目の夜、マーサが帳簿を開いた。
革の古い帳面である。三十年書いてきた。単式で、入りと出が一列に並んでいる。
「……赤字だよ」
彼女は指で行を追った。
「肉はただだ。荷車もただだ。だが塩がある。豆がある。薪がある。薪はあんたの魔法で減った。減ったが、ゼロじゃない」
彼女は数字を指で押さえた。
「百人分、毎日。一日四百G。十日で四千G。……うちの十日の売り上げは、三千だ」
帳面の行は、入りと出が同じ列に並んでいた。
上から順に、日付と、金額と、短い語が書いてある。『塩』『豆』『薪』『麦』。入りの行には何も書いていない。数字だけである。
「女将さん。この行は、入りですか、出ですか」
「数字の頭に点があるのが出だよ」
「点が、薄いです」
「三十年、それで足りてきた」
一人四G。
私が栄養管理士の答案に書いた献立は、一人五十Gだった。四Gは、その十分の一である。
十分の一でも、百人分なら四百Gになる。四百Gは、この食堂の一日の売り上げより多かった。
「あんた、いつまで続ける気だい」
「春までは。第十五条が変わるまで」
「春まで百五十日。六万G。……うちの二年分の利益だ」
彼女は帳面を閉じなかった。閉じずに、こちらを見た。
「止めろとは言わない。言わないが、金はどこかから湧かせなきゃならない」
足りてきた、という言い方は、困ったことがないという意味ではない。
困ったときに、どこで困ったか分からなかった、という意味である。
彼女は匙で鍋を指した。
「あんたの資格は、鍋を沸かして、肉の毒を抜いた。……金は、抜けないのかい」
毒抜きの次は、金。女将の依頼は、いつも試験範囲の外から来る。
私は一瞬、図鑑を開こうとした。マーサは、その手を見て匙を下ろした。
「先に、帳面だよ」
正解だった。資格を検索するより、店の数字を見る方が先だった。
◇◇◇
金。
板に丸で囲った字が、二つある。『金』と『格』である。
アンナの治癒士が八万G。ドルフの右手が三十万G。炊き出しの赤字が六万G。ハインリヒの百万G。
図鑑を開いた。
・『商人(C級)』 受験料:12,000G 合格率:28%
・『簿記士(B級)』 受験料:80,000G 合格率:12%
・『魔導会計士(A級)』 受験料:500,000G 合格率:3%
――年収番付、四位。平均年収、四千万G。
四千万G。
六万Gの赤字が、六百六十年分である。アンナの八万Gが、五百人分。
私の目が、その数字を見ていた。長いこと見ていた。
「――レオン」
ミラが日記から顔を上げた。
ミラは私の顔を見た。私が空中の一点を見つめたまま黙るときは、何かの資格について考えている。それは、もう何度も見られていた。
「……目が、お金になってる」
「……なってるか」
「なってる。……その顔、宴の貴族の人たちの顔と、ちょっと似てる」
貴族の顔。
桶の白パン。豚の餌、百G。格。
図鑑を閉じた。
閉じて、もう一度開いた。四千万G。
閉じた。
◇◇◇
「ミラ。商人C級は、一万二千Gだ」
私は板を開いた。
「取れば、仕入れの交渉ができる。塩を安く買える。簿記士B級は八万Gだ。取れば、女将さんの帳簿を複式にできる。どこで赤字が出ているか、行ごとに分かる」
「複式?」
「入りと出を、二列に分けて書く方法だ。……一列だと、どこで減ったか分からない」
「分からなくても、減ったことは分かるよ」
「減った場所が分かれば、止められます」
「止めてどうする」
「止めた分で、塩を買えます」
彼女は帳面を閉じた。閉じて、表紙の革を手で撫でた。
「……三十年、これで店を潰さなかったんだ」
「潰さなかったのは、女将さんの腕です。帳面の形ではありません」
「……口が上手くなったね、あんた」
「前よりは、少し。……まだ十二ですが」
「数字で言うんじゃないよ」
ミラは日記を見た。彼女の日記は一列である。
日付と、その日あったことが、縦に並んでいる。入りも出もない。
彼女の日記には、金の行が一度も出てこない。
「……さっきから、何をそんなに考えてるの?」
「魔導会計士。図鑑の年収番付では、平均四千万Gだ」
「四千万G? ……それ、取ったらどうするの」
「……それは」
正直な言葉が、出た。
「分からない。何に使うのか。……でも、面白そうだ」
ミラは日記を閉じて、笑った。
「面白そうならいいよ。……お金になってる顔で『面白そう』って言う人、初めて見た」
麦の袋の上で、タビが欠伸をした。
「……で?」
四千万Gにも、猫は動じなかった。
板に書いた。
『タビ。四千万Gに「で?」。
猫の番付には、金の欄がない』
書いてから、金の字の丸を、もう一度濃く塗った。
◇◇◇
その夜、物置で受験料の計算をした。
商人C級が一万二千G。簿記士B級が八万G。
合わせて九万二千G。
解体場の日当は六十六Gである。井戸の消毒が一軒五十G。衛生局への報告書が一通三十G。
全部足しても、一日百五十Gを超えない。
九万二千Gまで、六百日かかる。
春までは、百五十日しかない。
板に書いた。
『商人C級、一万二千G。
……八十日で届く。
簿記士B級、八万G。……届かない』
届くものと届かないものを、分けて書いた。
分けて書くのは、ドルフが山を分けていたのと同じ考え方である。手前と奥。届くものは手前に置く。
手前に置いたものから、取る。
書いてから、物置の窓を見た。
路地に、子どもが三人寝ていた。夏は七人だった。減った四人のうち三人は、マーサが厨房の隅に寝かせている。
春までに第十五条が変われば、肉は止まる。
止まったあとに残るのは、麦粥である。麦粥は一杯五Gで、一杯を三人で分ける家がある。
商人C級は、仕入れの交渉ができる資格だった。
交渉できる相手は、塩の商人である。塩が安くなれば、炊き出しの一日四百Gが、三百Gになる。
三百Gになっても、赤字は赤字だった。
赤字を埋める方法は、別の場所にある。別の場所を探すために、私は数字の読める資格を取ることにした。
読めるようになったものは、たいてい、読む前より厄介に見える。
毒腺の位置が見えるようになってから、私は肉が怖くなった。
帳面が読めるようになれば、この店の三十年が、どこで薄かったのかが見えるのだろう。
見えたものを、女将に言うかどうかは、見えてから決めることにした。
三十年の薄いところを指す言葉は、持ち方を間違えると、刃と同じになる。
刃の持ち方は、覚えた。言葉の持ち方は、まだ覚えていない。
前世で十一年、私は言葉を持ち損ねて嫌われた。嫌われた理由が分かったのは、包丁を三度止めた日である。
(第三部 第五章 了 / 幕間三に続く)




