第153話 神官長の目
その目を、私は忘れない。
神官長ベネディクトの目である。長年、水盆で資格を測定し、結果を待つ人々の顔を見てきた目だった。
その目がミラを見たとき、彼の顔が固くなった。
怒りではなかった。嫌悪でもなかった。
エルフィーナが門の前でミラの肩の空を指で撫でて、指が止まって震えたときの顔だった。
神官長の指は、震えていなかった。だが顔は、同じ色をしていた。
「……七年前。その娘を測定したのは、私だ」
ミラの目が、大きくなった。
匙を持った手が、少し下がった。
下がった手を、彼女は自分で上げ直した。上げ直して、匙を胸の前で持った。
七歳で受けた測定の話を、十四歳のミラが聞いていた。あれから七年経っても、匙を握る手には力が入っていた。
「七つの娘だった。聖水に手を浸した。……水が、弾いた」
弾いた。
「三千年の記録にない反応だった。私は三度測った。三度とも、水が弾いた」
彼は自分の手を見た。白い袖から出た、節の浮いた手である。
「私はそれを『対象外』と記録した。……記録する言葉が、他になかった」
記録する言葉がなかった。
書記が私の職業欄に「分類不能」と書いたときと、同じことである。
欄に収まらないものを、人は手持ちの言葉で呼ぶ。
呼ばれた言葉は、呼ばれた者の一生についていく。
「分類不能」は、私の職業登録の備考欄にもある。書記にはそれを理由に登録を止められた。それでも、この路地では、私はレオンと呼ばれている。
「対象外」は、神殿の測定簿にある。読む者がいるので、七年、ミラはそう呼ばれてきた。
同じ形の言葉が、置かれた場所で重さを変える。
私は、ミラの名前を心の中で呼んだ。対象外ではない。さっきまで匙を持っていた、同じ人の名前だ。
椀の底へ彼女が書いた字なら、私は幾つも知っている。神殿の一行だけに、この人を全部渡すわけにはいかなかった。
◇◇◇
「……娘」
彼はミラに言った。
「あの日、そなたは私に、何と言った」
ミラは匙を握り直した。
握り直して、答えた。
「……『ゆかが、あたたかい』って」
白い髭が、少し動いた。
「そうだ。神殿の白い床が、温かいと。……私は『気のせいです』と答えた」
彼は息を吐いた。
「床が本当に温かかったのか、私は確かめなかった。……ただ、聖水がそなたの手を弾いたことは、この目で見た」
路地の誰も、何も言わなかった。
「あの測定から、七年だ。神殿では、そなたについての記録を残してきた」
七歳から、十四歳まで。
「私が毎日見ていたのではない。下町を巡回する神官から、報告を受けていた」
神官長は、後ろに控えた若い神官たちへ目を向けた。
「十一の年に、この食堂で働き始めた。十二の年に、炊き出しを始めた。……今年は、字を覚えたと聞いた」
ミラが、小さく頷いた。
私は彼女を見た。働き始めた年齢まで、神殿に記録があるとは思わなかった。
「……何のための記録ですか」
私が聞くと、神官長はミラへ視線を戻した。
「同じ判定を受けた者の記録がない。あの日の反応が何を意味したのか、後で確かめられるように残した」
「意味は、分かったんですか」
「分からぬ」
答えは、短かった。
記録があることと、理由が分かることは違う。私自身、木の板に疑問を書き残している。それでも、答えの出ない行はいくつもあった。
ミラは匙を握ったまま、黙っていた。記録する理由を聞かされても、彼女が「対象外」と呼ばれてきた七年は変わらない。
◇◇◇
彼は私を見た。
「レオン・シラハネ。そなたは、あの測定の話を聞いているのか」
「……ミラから、『対象外』と判定されたことは聞きました。聖水の反応までは、今初めて知りました」
神官長は頷いた。
「神殿は資格を刻む場所だ。だが、あの日の測定では、その手続きに進めるかどうかさえ確かめられなかった」
私の図鑑には、別の表示があった。挑戦力、九十五。
しかし、その数字から聖水の反応を説明することはできない。神官長が図鑑や数字の存在を知っていると考える根拠もなかった。
「……なら、言っておく」
神官長は声を落とした。
「その娘に、近づきすぎるな」
エルフィーナから聞いた、祖父の警告が頭をよぎった。同じ言葉だ。
だが、その話を私は神官長にしていない。今ここで、二人が同じ理由で警告していると決めることはできなかった。
「理由を、教えてください」
「あの反応は、神殿の測定では扱えぬ。分からぬものを確かめようとして、踏み込むなということだ」
「それだけですか」
「……教義に関わる。それ以上は、話せぬ」
話せないのか。まだ分かっていないのか。
聞き返そうとしたが、神官長は口を閉じた。
神官長は私から視線を外し、路地の出口へ身体を向けた。白い祭服の裾が揺れた。
「炊き出しは続けよ。規程上、合法だ。神殿は認めぬ。……認めぬが、止めぬ。止める権限が、神殿にはない」
彼は路地を出ていった。
後ろの二人がついていった。痩せた神官が、最後に一度、椀の列を振り返った。
振り返って、何も言わなかった。
言わない代わりに、彼は懐から何か出して、路地の石の上に置いた。置いて、足早に追いついていった。
置いたのは、銅貨が三枚だった。三十G。
炊き出しに金は要らない。要らないものを置いていったのは、置く以外の方法を知らないからだろう。
◇◇◇
ミラは、匙を持ったまま立っていた。
顔は白かった。
しばらくして、彼女は笑った。
いつもの笑いだった。少し無理をした笑いである。
「……はい、次! ネル! 椀、出して!」
列が、動いた。
板に書いた。
『神官長ベネディクト。七年前にミラを測定。
聖水が手を弾いた。神殿は巡回神官の報告を七年間記録。
「近づきすぎるな」。詳しい理由は話さなかった』
二人目だった。
シルヴァリオン。ベネディクト。
エルフの長と、神殿の長。警告の言葉は同じだった。
理由まで同じなのかは、まだ分からない。
止める権限がない、と三千年の番人が認めた。合法である。
今日の勝ちは、その二文字だけで十分だった。
十分だと思えたのは、鍋が空になるまで列が動いたからである。
百人の椀が空になって、ミラが匙を籠に戻したとき、彼女は私に一言だけ言った。
「……レオン。床、温かくないよ」
「……は」
「神殿の床。……今は、温かくない。七つのときだけ、温かかった」
彼女は籠を抱えて、厨房に入っていった。
炊き出しが終わってから、私は腰の木の板を開いた。ミラが最後に教えてくれたことも、忘れないうちに書いておく。
『ミラ。「七つのときだけ、床が温かかった」
……今は、温かくない』
七つのときだけ。
温かいものが、七年のあいだに消えた。消えたのか、彼女が感じなくなったのかは、分からない。
分からないものを、右の欄に書いた。
右の欄の十三行目である。
近づきすぎるなという警告を、私は二人から別々の形で聞いた。長老の言葉はエルフィーナから、神官長の言葉は本人からだ。
だが、ミラに何も聞かずに離れたら、彼女が話してくれたことも分からないままになる。
確かめなければ、右の欄に残る。
確かめ方は、まだ思いついていない。思いつく場所は、たいてい、探していないときに来る。
残った行を、私は十三行、持ち歩いている。
持ち歩いているうちに、確かめられる行が来る。来た日に気づけるように、書いてある。
書いていなければ、来たことにも気づかない。四十日前の手袋が、それを教えた。
手袋は、三つ買った。買ったのは、二日遅れた後である。
二日前に買えた手袋を、二日後に買った。差は二日だった。
ドルフの右手は、戻っていない。戻らない手で、親方は毎朝、口で手順を言う。言われた手順で、私は毎日三体切っている。




