第152話 配膳は誰でも合法
「――神官長」
声が震えていた。右手も震えていた。
社交性十八。宴の三十人の視線の一日後に、今日は百人の視線がある。
それでも、言った。
「一つ、確認させてください。神殿の教義は、王国の規程ではありませんね」
「何を言う」
「王国の『魔物由来食材、流通規程』です」
私は腰の板を外して、路地の石の上に置いた。置いて、開いた。
四十日のあいだに写し終えた、二十四条がそこにある。
解体場の作業台の脇で、仕事の合間に一条ずつ、炭で板に写した。
写し終えたとき、私は二十四条の中に『配膳』という語が一度も出ないことに気づいた。気づいて、板の右の欄に一行書いた。『配膳は、誰がしてもよいのか』。
確かめていない欄の、六行目である。
答えを確かめられれば、この疑問を左の「分かったこと」の欄へ移せる。
「第八条。有毒部位の処理は、魔物調理師C級以上の監督下で行う。処理は、私がしました。第十五条。流通先を資格院に届け出る。届けは、受理されました」
私は顔を上げた。
「第一条から第二十四条まで、『配膳』に関する規定は、一つもありません」
神官長は動かなかった。
「配膳は、規程の対象外です。……つまり、誰が配膳しても合法です。ミラでも。ルナでも。神官長ご自身でも」
後ろの痩せた神官が、口を開きかけた。
開きかけて、閉じた。閉じた理由は、反論が思いつかなかったからではないように見えた。
「規程の話をしているのではない。教義の話を」
「教義は、資格院の規程に優先するのですか」
私の声は、まだ震えていた。条文を暗記していても、向かいに人が立てば、それだけでは足りない。
背後で、椀がそっと置かれる音がした。
私は振り返らなかった。今ここで振り返れば、誰かに代わってほしくなる。最後の一文まで、自分の声で言った。
◇◇◇
路地が、静まった。
賭けだった。
資格神殿と資格院。三千年、共に歩いてきた二つである。どちらが上かは、図鑑にも書かれていなかった。
書かれていないものを、私は人の口から聞こうとしていた。
長い沈黙があった。
沈黙のあいだ、列は動かなかった。桶屋の女房が椀を数える手を止めていた。マーサが戸口で木の匙を持ち直した。
持ち直して、彼女は一歩前に出た。
「神官長様。うちの店の軒下でやってることです。文句があるなら、うちに」
「女将」
私は彼女を止めた。
「規程の話をしています。店の話ではありません」
「……店の話にしたほうが、早く済むよ」
「早く済んだら、来年も来ます」
彼女は口をつぐんだ。つぐんで、匙を下げた。
早く済ませる方法と、来年も来させない方法は、別である。
「……優先せぬ」
彼は言った。
声の大きさは、さっきと同じだった。小さくしなかったのが、この老人の誠実さだと思う。
「資格の刻印は、神殿が行う。だが資格の運用は、資格院が行う。三千年前、神がそう分けた」
彼は白い袖を少し上げた。
「教義は、刻印に及ぶ。運用には及ばぬ」
「では、配膳は」
「……運用だ」
認めた。
認めて、彼は動かなかった。
列の中で、誰かが息を吐いた。
長く止めていた息だった。吐いたのは、ヨナスの倅だったと思う。椀を二つ抱えたまま、肩が下がった。
◇◇◇
「そなたの言い分は、正しい。規程上は」
彼はそれを先に言った。言ってから、一歩だけ近づいた。
「だがレオン・シラハネ。そなたはなぜ、その娘を庇う」
庇う。
庇っているのか、と私は考えた。考えて、答えが出なかった。
出ないまま、答えた。
「……庇っていません。ミラが配膳しなければ、この百人にスープは届きません」
私は鍋を見た。
「私は鍋を持っています。二つの手で、鍋と匙は持てません」
「他の者に配膳させればよい」
「他の者は、二十三人の名前を知りません」
椀を指した。ルナの椀である。底に『ルナ』と書いてある。
「ミラは、全員の名前を知っています。名前を椀に書いたのは、ミラです。誰がどの椀か、ミラしか分かりません」
神官長が、椀を見た。
「取り合いがなくなったのは、ミラが字を覚えたからです。覚える前は、毎晩、椀の取り合いで一人か二人が泣いていました」
泣いた子の数を、私は三日だけ数えた。三日で五人だった。
五人のうち三人は、同じ子である。小さい子は、押されれば後ろに行く。後ろに行けば、鍋が空になる。
名前を書いたのは、ミラが自分で思いついた方法だった。
彼女は夜、食堂の裏の壁で字を覚えた。覚える順番は、子どもの名前の順だった。一番小さい子の名前から覚えた。
神官長は、それを聞いていた。
聞いて、しばらく何も言わなかった。
「……字を教えたのは、そなたか」
「私です」
「なぜ」
「名前を書けば、取り合いが減ると、彼女が言ったからです」
正確には、彼女はそう言っていない。
彼女は「名前があれば、分かる」と言った。その一言から、椀に名前を書く方法まで、彼女が自分で組み立てた。
組み立てた方法に、私は字を貸しただけである。
「……組み立てたのは、娘か」
「はい」
「そなたではなく」
「私は、四十の字を教えました。……椀に書くことは、思いつきませんでした」
白い髭が、動いた。
動いた形は、笑いに似ていた。似ていたが、笑いではなかったのだと思う。
◇◇◇
「……レオン・シラハネ」
彼は私の名を、初めて呼んだ。
「そなたは、規程を読む」
「読みます」
「読んで、どうする」
「隙間を探します」
正直に答えた。隠す意味がなかった。
「隙間に入って、通る。……通ったものは、次の者も通れます」
「隙間は、塞がれる」
「塞がれる前に、通った記録が残ります」
記録が残れば、次の者はそこから始められる。
三十年、誰も使わなかった第八条第二項を、私は原文で見つけた。見つけられたのは、原文が公開法規の棚にあったからである。
棚に置いた者がいる。置いただけで、誰にも読まれなかった。
読まれなかったものを読むのが、私の資格の使い方だった。
神官長は、しばらく黙っていた。
黙ってから、経典のことを言わなかった。
言わなかったのは、言っても届かないと分かったからだと思う。
届かないものを繰り返さない老人は、三千年の番人としては、珍しいのかもしれない。
彼は拙い字を見ていた。
七つの子の手で書いたような、太くて、端が震えた三文字である。
「……字を」
「二か月で。四十の字を」
私はミラを見た。ミラは匙を握ったままだった。
「資格はありません。願書で弾かれます。測定の欄に『対象外』と書かれているからです。……それでも、字は覚えました」
彼はしばらく椀を見ていた。
それから、ミラを見た。




