第151話 冒涜
翌日の夕方、白い祭服を着た神官が三人、銀のスライム亭の路地にやって来た。
炊き出しの列ができていた。二日目も、百人来た。
先頭に立つのは、七十を越えているだろう老人だった。白い髭を蓄え、祭服の胸には資格神の大きな紋章をつけている。
後ろの二人は若い神官である。一人は、水盆の脇で金の光を見上げて顔を固くした、あの痩せた神官だった。
痩せた若い神官は、炊き出しの列を見ていた。椀を抱えた子どもたちを。
神官たちに気づいた子どもが、足を止めた。後ろの子も止まり、列が動かなくなった。
下町の子どもたちは、神官がそろって路地へ来るところなど、見慣れていない。何を言われるか分からない相手には、近づかない。それが、この路地で覚えた身の守り方だった。
それでも、列を離れる子はいなかった。椀を手に、夕飯を待っているからである。
「――資格神殿、神官長、ベネディクトである」
老いた声だった。老いていて、路地の端まで届いた。
長年、神殿で儀式を執り行ってきた者らしい、よく通る声である。
列の話し声まで途絶えた。子どもたちが、椀を胸に抱き寄せた。
マーサが厨房の窓から顔を出して、それから引っ込んだ。引っ込んで、戸口に立ち直した。
手に、鍋を掻く木の匙を持っていた。武器ではない。持ったまま出てきただけである。
桶屋の女房が、貸した椀の数を数え直し始めた。数える手が速かった。
列の途中で、ヨナスの倅が二つの椀を抱えて、後ろに半歩下がった。
下がって、二つの椀を胸の前で抱え直した。一つは自分の、一つは軒下の子の分である。
九つの子どもが、二つの椀を守る構えをしていた。
片方の椀は、自分のためではない。その分まで抱えると、肘が張って、子どもの身体が大きく見えた。
私は一歩、列の外へ出た。
誰かをかばう立ち方を、この子にだけさせてはいけない。声を出す前に、立つ場所を決めた。
◇◇◇
「魔物由来食材の炊き出しと聞いた。調理は、魔物調理師が行ったと」
「はい。私です。レオン・シラハネ。魔物調理師C級」
「知っている」
彼は私の腰の木札を見なかった。
「四つ目のゲテモノまで、とヴィンセントが報告した。……そなたの資格に異論はない。神殿は刻印した。刻印したものは、神の認めたものだ」
彼は一歩前に出た。
「問題は、そなたではない」
彼はミラを見た。
ミラは匙を持ったまま立っていた。栗色の髪。煤のついた頬。前掛けの裾が濡れている。
「……その娘だ。その娘は資格を持たぬ。持たぬのではなく、持てぬ」
路地の空気が、変わった。
「神殿は七年前、その娘を『対象外』と測定した。三度。……対象外の者は、神の道標の外にいる」
彼の声は、責める声ではなかった。読み上げる声だった。
三千年伝わる教義を、そのまま読み上げているようだった。目の前のミラについて、自分の言葉で語っているのではない。
「道標の外にいる者が、神の認めた資格者の加工した食材を配膳している。……これは冒涜である」
冒涜。
◇◇◇
「魔物由来食材は、毒を含む」
彼は続けた。
「毒を清めるのは、本来、神殿の務めだ。魔物調理師は、神殿の務めの代替として神殿が認めた資格である。神殿が認めた者が処理した食材は、清い。……だが清い食材を、対象外の者が触れれば、清さが失われる」
「失われる、というのは、どういう理屈ですか」
「理屈ではない。教義だ」
教義。
教本と、似た響きの言葉だった。どちらも、従うべき教えを記したものだ。
教本の図は、実物とずれていた。ずれていても、予備校はそれを売った。
教義も、同じ形をしているのかもしれない。中身を問われないまま、三千年売られてきた。
問うたことがあるかどうかを、私はこの老人に聞きたかった。
「神官長。清さが失われる、という例は、記録にありますか」
「記録」
「三千年のうちに、対象外の者が触れた食材で、誰かが害を受けた記録です」
彼は答えなかった。
答えない代わりに、後ろの若い神官を見た。痩せた神官が、首を横に振った。
「……記録はない」
「では」
「記録がないことは、起きなかったことの証明にはならぬ」
それは、正しい。
正しいが、同じ論法で、起きたことの証明にもならない。
三十通の報告書を書いたのは、記録がなければ何も動かないからだった。
「炊き出しを止めよ。その娘が配膳している限り、神殿はこの炊き出しを認めぬ」
彼は列を見た。百人の列を。
「認めぬ炊き出しの食材は、汚れたものとして、廃棄を命じる」
廃棄。
解体場で、四十年にわたって捨てられてきた部位の肉である。それを今日は、毒を抜いて一刻半煮た。桶屋の女房も椀を貸してくれた。あとは、待っている人に配るだけだった。
廃棄を命じる、と彼は言った。
命じる権限がどこから来るのかを、私はまだ聞いていない。
神殿は刻印する。資格院は運用する。どちらがどこまでを握っているのかを、私は図鑑でも見つけられなかった。
権限の境目が分からないまま、私は神官長ベネディクトと向き合っていた。廃棄を命じられた鍋が、すぐそばにある。
◇◇◇
「神官長。一つ、伺います」
私は鍋のそばで姿勢を正し、神官長を見た。
「廃棄を命じる、とおっしゃいました。……命じる根拠は、どこにありますか」
「教義である」
「教義は、どこに書かれていますか」
「神殿の経典に」
「経典は、平民が読めますか」
彼の髭が、少し動いた。
「読めぬ。経典は神官のみが読む」
「読めないものに従えと」
「従うのではない。……そういうものだ、と知るのだ」
そういうもの。
村長が村の掟を言うときの言い方と、同じだった。ハルムの村で、私は十一の掟を諳んじて村人E級を取った。十一のうち三つは、理由を誰も知らなかった。
理由を知らない掟を、村は三百年守っていた。守って、誰も困らなかった。
困っていないものを、私は崩したことがない。
今、困っている者が百人、路地に並んでいた。
百人のうち十九人は子どもで、十九人のうち六人は、まだ名前を言わない。
名前を言わない六人の椀の底には、何も書いていない。
書いていない椀を、神官長は見ていなかった。見ていたのは、椀を配る娘の顔だった。
見る目に、怒りはなかった。
怒りのない目で廃棄を命じる者は、命じ慣れている者である。
命じ慣れた者に、私はまだ一度も勝っていない。
勝ったことがあるのは、規程を読んだときだけである。
経典は、読めない。読めないものでは、勝てない。
経典の中身を争っていては、炊き出しを守れない。別の根拠が要る。
私が読める規程の中に、廃棄命令を退ける手がかりはないか。
神官長にどの条文を示せばいいのか。私は、板に写した規程を思い返した。
ルナがミラのスカートを掴んだ。チャが唸った。
ミラは動かなかった。
匙を握り直した。握り直して、それから椀の列を見た。名前のある椀と、名前のない椀が混ざって並んでいる。
彼女が自分で混ぜた列である。
彼女の顔は、白かった。
今のミラの顔は、七つのときの顔なのだと、私は後で思った。




