第150話 財務理事の手帳
宴が終わりかけた頃、財務理事が私の前に来た。
ハインリヒ・フォン・ロスチャイルド。細い目の、四十代の男である。指先に、灰色の塩を少しつけたままだった。
「見事な機転でした。炭を塩に」
彼は指先を見た。
「商会の料理人には、できない発想です。彼らは失敗をしないように教育されている。……失敗しない者は、失敗の使い方を知らない」
失敗の使い方。
私も、十一年知らなかった。
前世で私は、失敗しない方法だけを覚えた。覚えた方法は、受験の方法である。受験の外に出なければ、失敗はしない。
出なかったので、使い方も覚えなかった。
「率直に申し上げます。ロスチャイルド商会に来ませんか」
彼は声を落とさなかった。落とす必要がないのだろう。
「年収、百万G。専属の魔物調理師として。宴の料理と、課題二の方法を、商会の料理人に教えていただく。あなたの『気圧の術式』を」
百万G。
アンナの治癒士十二人分である。魔物調理師の受験料、六十六回分。
頭の中で、その数字が回った。
回って、止められなかった。資格を取る金が、十一年、いつも足りなかった。足りなかった額が、一年で埋まる。
アンナの治癒士は、八万Gだった。手袋は一つ二百Gだった。ドルフの右手を治す治癒士は、三十万Gである。
百万Gあれば、三十万Gが払える。払えば、四十年の手が戻るかもしれない。
かもしれないを数えているあいだ、私は返事をしていなかった。
それから、桶を思った。
裏門に出される桶。豚の餌、百G。格。
「……お断りします」
「理由を」
「解体場で、正式な監督を引き受けたばかりです。それに、下町への流通の届けも出しました。今、あの場所を離れるわけにはいきません」
細い目が、動いた。
「下町への流通。ええ、聞いております。第十五条。届け先、銀のスライム亭。……前例のない届けだそうで」
彼は懐から小さな革の手帳を出した。羽根ペンで、何か書いた。
私の名前を書いているのだと、字の長さで分かった。
彼は手帳を、こちらに見えない角度に傾けていた。傾け方が自然だった。三十年、同じ角度で書いてきた手である。
書いたものが、どの帳面に移るのかは、分からない。
分からないが、移ることは分かった。
宴の席で書かれた名前が、どこかの頁に行く。行った先の頁に、私の前に何人の名前が並んでいるのかを、私は知らない。
手帳の角は、使い込まれて丸くなっていた。私の板と、同じように毎日開かれるものなのだろう。
何を残すかが違うだけで、書く仕草は似ている。
そのことが、いちばん嫌だった。私は腰の板に触れ、自分が今夜書くべき行を、忘れないようにした。
◇◇◇
「規程は、三十年前に私が起草しました」
彼は手帳を閉じずに言った。
「第十五条に流通先の制限を書かなかったのは、私の不注意です。当時、下町に魔物肉を流そうと考える者がいるとは、思わなかった」
いないものは、書かない。
書かなかったものが、三十年後に隙間になった。
「規程は、改定できます。財務理事の権限で。次の版には、流通先を『資格院の認定する商会』に限る、と書くつもりです」
「いつ、ですか」
「理事会の承認が要ります。次の理事会は、春です」
春。
「それまでは、有効です。……半年。半年で、下町に何人分の肉を流せますか」
彼は自分で答えた。
「百人分を毎日として、一万八千人分。……一万八千人分の、格の崩れ」
笑わずに言った。
「私はあなたを敵とは思っておりません。優秀な調理師です。ですが、規程を隙間から読む者は、規程の側にいるべきです。隙間の側ではなく」
彼は一礼した。
「春までに、お考えください」
去る足音に、迷いがなかった。
「――ロスチャイルド様」
呼び止めた。社交性十二の人間が、財務理事を呼び止めた。
彼は振り向いた。振り向き方も、迷いがなかった。
「三十年前、魔物調理師の受験料を三千Gから一万五千Gに上げたのは、どなたですか」
彼の目が、少し動いた。
「……規程の起草と、料金表の改定は、別の議案です」
「どちらも、財務の議案です」
「……私です」
彼はそれを認めた。隠す意味がないのだろう。
「理由を、お聞きしてよろしいですか」
「受験者が多すぎた。年に八十人。八十人のうち七十七人が落ちる。落ちる者のために、試験場と試験官を年に一度、用意する」
彼は手帳を懐に入れた。
「無駄です。……五倍にすれば、十人になる。十人のために用意するほうが、安い」
「落ちる七十七人は」
「落ちる者は、落ちます。料金が三千Gでも、一万五千Gでも」
課題は、三千年変わっていない。値段だけが変わった。
課題を触れば誰かが気づく。値段を触っても、誰も気づかない。
気づいた者が、三十年目に一人、彼の前に立っていた。
「……なぜ、それを私に聞く」
「落ちた七十七人の名が、どこにも残っていないからです」
「残して、どうする」
「残っていれば、数えられます。……数えられるものは、動かせます」
彼は少し黙った。
「……そなたは、料理人ではないな」
それだけ言って、彼は広間を出ていった。
料理人ではない、と言われたのは、二度目である。
一度目は、資格院の受付で、書記に職業欄を「分類不能」と書かれたときだった。
分類不能と、料理人ではないは、同じことを別の側から言っている。
分類の欄に収まらない者は、分類を作る側から見れば、収めるべき場所を探される。
◇◇◇
板に書くべきことが、増えた。
『財務理事ハインリヒ。
第十五条、春に改定。流通先、商会に限定。
……半年』
半年で、規程が変わる。変わる前に、何をするか。
図鑑を開いた。『規程改定の手続き』。理事会の承認。多数決。
多数決を覆す方法を、私はまだ知らない。
知らないことを、板の右の欄に書いた。
右の欄の行が、十一になった。
◇◇◇
宴が終わって厨房に戻ると、ルドガーが待っていた。
彼は腕を組んで、鉄板の上の炭の残りを見ていた。
「……坊や。五万G」
「払えません」
「払わなくていい」
彼は腕を解いた。
「アシュベリー様が持つ。『塩の分で釣りが出る』とおっしゃった。……宴の客が十四人、うちの商会に香味塩を注文した。十四人だ。一人五千Gで売る」
七万G。
「坊やの取り分は、ない。製法を聞いていないからね。……聞いても教えないだろう?」
「教えます」
「は?」
「聞かれれば教えます。……ただ、炭は五万Gの舌からしか出ません。オークの骨でも試しますが、同じ香りになるかは分かりません」
彼は口を開けて、それから笑った。
「……坊や。それを財務理事の前で言うんじゃないよ」




