第148話 燻製風味の香味塩
包丁を取った。
「……何を」
「まだ続ける気か」
「五万Gを炭にして」
卓の声を、聞かないことにした。
炭を、まな板に載せた。
刃を当てた。震えを刻む速度に。炭の表面を薄く削った。粉にした。
黒い粉が、まな板に落ちた。
炭は硬かった。表面だけが硬く、中は脆い。硬い層を削るとき、刃が跳ねた。跳ねる刃を、左手で押さえた。
押さえ方は、毒腺のときと同じである。深さを左手で決めて、上下は震えに任せる。
震えが、ここでは役に立った。炭を粉にするには、刃を小刻みに動かすほうが速い。
匂いが、変わった。
焦げた匂いから、燻した匂いに。炭の粉は、燻製の香りを持っていた。ドラゴンの舌の魔素と脂が、炭になって香りに変わっていた。
「……塩を」
従者に言った。従者は動かなかった。
「――塩を、持ってきなさい」
卓の端で、ヴィルヘルムが卓を叩いた。
「学院の首席が料理をしている。塩を」
従者が動いた。
動く前に、彼は主人を見た。主人は止めなかった。止めなかったのは、もう取り返しがつかないからだろう。
塩を待つあいだ、私は肉を塩水から出して、布で押さえた。ミラの手拭きである。縫い目の糸の色が一か所だけ違う布で、ドラゴンの舌を扱った手を拭いた。
◇◇◇
白い粗塩が来た。
炭の粉と混ぜた。灰色になった。燻製の香りのする塩である。
混ぜる割合を、『栄養分析Lv2』で測った。炭が多すぎると苦い。塩が多すぎると香りが立たない。
画面の数字は、塩七に炭三を示した。
七対三で混ぜて、指先で舐めた。
舐めてから、もう一度、炭を少し足した。画面の数字より、少し苦いほうがいいと判断した。
苦いのが薬だと、ヒルダは言った。苦いのが旨いことも、前世の厨房では知られている。
次に、肉を出した。
厨房に持ち込んでいたものである。オークの肩肉。解体場の裏の山の、手前の一切れ。荷車に積み損ねた分だった。
宴のために持ってきたのではない。失敗したときの、自分の賄いのために持ってきていた。塩水に浸けてある。毒腺は切ってある。
鉄板に載せた。
今度は、風の陣を使わなかった。竈の元の火だけで焼いた。魔力なしで、ゆっくり。
表面が茶色に変わった。
変わるのを待つあいだ、私は鉄板の音を数えていた。音は、低く速くならなかった。魔素を帯びていない肉は、自分で熱を出さない。
灰色の塩を振った。
燻製の香りが、肉の脂と混ざった。
薄く切った。震えを刻む速度に。三十切れ。
銀の皿に並べて、卓に運んだ。
「……ドラゴンの舌は、炭になりました。炭を香味塩にして、オークの肩肉に振りました」
頭を下げた。
誰も手を出さなかった。
◇◇◇
最初に手を出したのは、レオポルドだった。
一切れ取って、口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。
それから、父を見た。
「……父上。これは、うちの料理人のドラゴン肉より、旨い」
グレゴールの細い顎が、動いた。
彼は一切れ取った。長いこと噛んだ。
「……オーク、と言ったな。オークは下町の獣だ。宴に出すものではない」
「はい。ですが、塩は、ドラゴンです」
グレゴールの手が止まった。
「……塩が、ドラゴンだと」
「五万Gの舌です。炭にしましたが、捨てていません。七割は香りとして残っています」
「残り三割は」
「煙になって、この広間にあります」
彼は天井を見た。魔導ランプの光の輪が三つある天井である。
見てから、三切れ目を取った。
三切れ目を取るとき、彼は皿の縁を指で引き寄せた。
引き寄せる仕草を、三十人のうち何人かが見ていた。見た者から、手が伸び始めた。
卓の順序が、そこで変わった。主人が三切れ取ったものを、客が遠慮する理由はない。
「……ヴィルヘルム殿。学院では、こういうものを教えるのか」
グレゴールが聞いた。
「教えません」
ヴィルヘルムは即答した。
「学院が教えるのは、炎の維持と、的への命中です。……炭を削ることは、教えません」
「では、どこで覚える」
「覚えたのではないでしょう。……この場で、思いついたのです」
彼は塩の皿を見た。
「学院で測れるのは、思いつく前までです」
測れるのは、思いつく前まで。
学院の筆記は、覚えたものを測る。実技は、やれるものを測る。
思いついたものを測る欄は、どこにもなかった。
私の備考欄に『規程外の術式』が五つ並んでいるのは、測る欄がないものを、書記が余白に書いたからである。
余白は、測られない。測られないものだけが、余白に残る。
◇◇◇
塩を運んできた従者が、皿の脇に立っていた。
立って、灰色の塩を見ていた。
「……ハンスさん。舐めますか」
「料理人の分は、下げた皿からいただきます。宴の卓のものは」
「卓に出す前の塩です。まだ卓のものではありません」
彼は指先に少しつけて、舐めた。
舐めて、目を少し開いた。開いただけで、何も言わなかった。
二十二年、この家で皿を下げてきた男が、宴の卓に出る前のものを舐めた。
舐めた指を、彼は前掛けで拭かなかった。拭かずに、皿を運んでいった。
彼はもう一切れ取った。
卓が、動いた。
三十人が一切れずつ取った。広間に咀嚼の音がした。
その音の後に――
笑い声がした。
エルフィーナだった。
彼女は卓に突っ伏していた。肩が震えていた。腹を抱えて。百二十年、笑われたことのない者が、笑っていた。
「……炭を……香味塩に……五万Gの舌を……」
笑い声が、広がった。
貴族の上品な笑いではなかった。腹からの笑いだった。
「炭だぞ」
「あれを塩に」
「オークに、ドラゴンの塩を」
「震えてたのに」
厨房の入口で、ルドガーが頭を抱えたまま笑っていた。
私は竈の脇に立っていた。右手は震えていた。冷や汗が背中を伝っていた。
五万Gは炭になった。炭は塩になった。塩は、笑いになった。
財務理事だけが、笑っていなかった。
彼は灰色の塩を指でつまんで、見ていた。
見てから、舐めた。
舐めた顔に、何も出なかった。出さないのが、三十年、院の金を数えてきた男の顔だった。
出さないまま、彼は指の塩を二度舐めた。二度目は、もう味を見るためではなかった。
震える手を見たいと言って呼んだ三十人が、震える手の塩を、二切れ目まで取っていた。




