第147話 炭になる
視線が、来た。
三十人分である。手のひらに来た。火に来た。震えに来た。
彼らは料理を見に来たのではない。震えを見に来た。「震える手を見たい」と、主人はそう言って私を呼んだ。
見られていることを、私は背中の皮膚で感じた。
三十人のうち、料理を見ている者が何人いるかを、私は数えようとした。
グレゴールは鉄板を見ていた。レオポルドは皿を見ていた。ヴィルヘルムは私の足元を見ていた。立ち方を見る教官の癖である。エルフィーナは鉄板の温度を見ていた。
残りの二十六人は、手を見ていた。
前世の会議室で、意見を求められたときの視線と、同じ配り方だった。発言の中身を聞く者が二人いて、残りは言い方を見ている。
感じた瞬間、手のひらの陣が乱れた。
五千人ではない。三十人である。学院の実技場には、もっと人がいた日もあった。
だが三十人の視線は、五千人の視線と同じ場所に来た。胃だった。
胃が締まった。息が浅くなった。
「吐きながら」
ドルフの声が、頭の中で鳴った。
吐こうとした。吐けなかった。喉の奥が塞がっていた。塞いでいたのは視線である。
息が、止まった。
止まった息の中で、陣が暴れた。
押し出す魔力の量を、間違えた。三ではなく、十。十が、五倍になった。
五十の火である。
下町の井戸を一つ沸かす火を、私は鉄板一枚の下に入れた。
炎が噴いた。
竈から私の顔の高さまで。白い炎だった。鉄板が赤くなった。舌が――
黒くなった。
一瞬である。白かった可食部が、炎の中で縮み、黒くなり、煙を上げた。
焦げた匂いが、広間に満ちた。
魔素を帯びた肉の焦げる匂いは、ただの焦げ臭さではなかった。甘くて、喉の奥に残る。
解体場の奥の、山の匂いに近かった。
◇◇◇
手を下ろした。炎が消えた。
鉄板の上に、黒い炭があった。私の腕ほどの長さの炭である。
五万Gの炭だった。
広間が凍った。
拍手はなかった。笑いもなかった。三十人が、炭を見ていた。
グレゴールの細い顎が、動かなかった。
財務理事の細い目が、少し細くなった。
厨房の入口で、ルドガーが頭を抱えているのが見えた。抱えた手の指のあいだから、彼はこちらを見ていた。
エルフィーナが、卓の向こうで目を閉じた。
レオポルドが、皿から目を上げた。
彼の顔にあったのは、嘲りではなかった。決闘の朝の、私の顔だった。眠っていない顔である。彼はそれを知っていた。知っていて、何も言わなかった。
◇◇◇
「……レオン殿」
従者が小声で言った。
「その、炭は、お下げしますか」
「待ってください」
「お下げしないと、匂いが」
「待ってください」
厨房の入口で、ルドガーが口を開きかけた。
弁償、という言葉の形に口が動いた。動いて、途中で止まった。止めたのは、主人がまだ何も言っていないからだろう。
財務理事が、椅子から少し腰を上げた。
上げて、座り直した。座り直すとき、彼は私の手ではなく、まな板を見ていた。
◇◇◇
私は炭を見ていた。
五万G。三年分の給金である。百人分のスープを、五百日分。
それが炭になった。三十人の視線と、社交性十二のせいで。
前世のまな板が浮かんだ。
あの夜、私は失敗しなかった。手順は完璧だった。完璧な手順で、朱書きの一行だけを飛ばして、死んだ。
今夜、私は失敗した。手順の途中で。息が止まって。
(……失敗、した)
その事実が、妙に澄んで頭に入った。
前世の十一年で、私は失敗をしていない。試験では落ちなかった。試験の外では何もしなかったから、失敗もしなかった。
失敗をしない人生の、最後がフグだった。
今夜、私は三十人の前で失敗した。炭が、目の前にある。
(……炭、か)
黒い。硬い。焦げた匂いがする。
前世の調理師学校で、隣の班が燻製を作っていた。燻した香り。煙は、木を焦がして作る。焦げたものは、香りを持つ。
炭は、焦げたものだ。
板を開いた。開いて、炭の匂いを嗅ぎながら、二行書いた。
『魔素の肉は、焦げると燻した香りになる。
……香りは、残っている』
書いているあいだ、広間は静かだった。
静かな広間で、炭を見ながら板に字を書いている平民を、三十人が見ていた。
エルフィーナが目を開けた。開けて、私の手元を見た。彼女が見たのは板だった。
「……レオン」
彼女が私の名を、この広間で初めて呼んだ。
「焦げた匂いだ。……森では、焦げたものは捨てる」
「捨てますか」
「捨てる。……が、お前は捨てんのだろう」
捨てない理由を、私はまだ言葉にしていなかった。
言葉にする前に、手が動いていた。
前世の私は、手より先に言葉を用意する人間だった。用意した言葉を、会議では一度も出せなかった。
今夜も、言葉は用意していない。
用意していないものを、三十人の前で動かすことになった。
鉄板の熱が、引き始めていた。
引く前に使わなければ、炭は冷えて硬くなる。冷えた炭は削りにくい。削りにくいものを削るのは、時間がかかる。
時間は、宴のあいだしかない。
主人が席を立てば、宴は終わる。終われば、炭は桶に行く。
桶に行った炭は、豚も食べない。
私は左手で炭を押さえた。押さえると、指の腹に熱が来た。熱いというより、痛かった。
痛いまま、押さえ続けた。
二百Gの手袋は、厨房に置いてきていた。
手袋を取りに戻れば、炭は冷える。
四十年、穴の空いた手袋で奥に入っていた男がいる。彼は手袋を買わなかった。買わなかった理由は、金ではなかった。
自分のものを買う順番を、彼は最後に置いていた。
私は今夜、自分の指を最後に置いた。
置き方を、彼から習った覚えはない。
習っていないものが、手に移っていた。四十日隣にいたからだろう。
隣にいると移るものを、数える欄は、どの資格の教本にもない。
欄がないものを、私は十一年、一つも受け取らなかった。隣に誰もいなかったからである。
受け取り方を覚えたのは、この一年半だった。
覚えたと言っても、受け取ったことに後で気づくだけである。気づいたときには、もう手が動いている。
今夜の手も、そうだった。炭を削り始めてから、なぜ削っているのかを考えた。考える前に、匂いが答えを出していた。




