第144話 泣きながら飲む
ルナが、動かなくなった。
匙を口に入れたまま、目を見開いて。
毒か。虫か。
頭の中で三分類が回った。切除した。洗浄した。加熱した。全部やった。やった手順を、私は板に書いてある。
図鑑を向けかけた。
ルナが、泣いた。
声を出さずに。匙を口に入れたまま、目から涙が落ちた。
涙は椀の中に入った。彼女はそれを拭かなかった。拭かずに、二口目を掬った。
「……ルナ?」
「……おいしい」
泣きながら、彼女はそれを言った。
「……おにく。……はじめて。……おにくの、スープ」
七歳のルナは、肉のスープを飲んだことがなかった。
麦粥。豆のスープ。黒パン。削って食べるカビの縁。それだけの七年である。
肉の匂いは、上町から風で降りてくるものだった。降りてくるだけのものだった。
三口目で、彼女は骨を掴んだ。骨についた肉を、歯でこそいだ。泣きながら。
チャが彼女の膝に顎を載せた。
骨を齧り終えて、ルナは骨を椀の縁に立てた。立てて、しばらくそれを見ていた。
「……これ、持っててもいい?」
「骨は、捨てる」
「……持ってたい」
彼女は骨を前掛けの隠しに入れた。入れてから、残りのスープを飲んだ。
骨を持っていたい理由を、私は聞かなかった。
前世の私も、通知書を捨てられなかった。十一年分の封筒が、押し入れの衣装ケースの底にあった。
列が動いた。
トビが椀を受け取った。拾った肉で倒れて、三日寝ていた少年である。
「……これ、オーク?」
「オークだ。解体場の裏の。……拾ったやつだ。毒を抜いた」
トビは一口飲んだ。
泣かなかった。
泣かない代わりに、椀を一気に空にして、空の椀を私に突き出した。
「……もっと」
ミラが笑った。泣きながら笑った。
「トビ! 一人一杯! 百人分しかないの!」
「じゃあ明日!」
「明日は明日の分!」
列が進んだ。
ネル。ハンナ。名前のある椀。名前のない椀。西区の子。東の子。一人ずつ、匙と椀を受け取っていった。
受け取った子どもたちは、壁際に座って飲んだ。
誰も喋らなかった。骨を齧る音だけが、路地に並んでいた。
◇◇◇
五十杯を過ぎた頃、路地の端に人影が二つ立った。
ドルフと、その妻だった。
彼は右手を吊って、左手に椀を持っていた。妻が持たせたのだろう。
私は鍋を置いて、そこへ行った。行って、椀に注いだ。
肋肉が骨ごと一本。豆。草。
彼は左手で椀を持ち、匙を使わずに縁から飲んだ。片手で飲むのに慣れていなかった。汁が顎に垂れた。
妻が布で拭いた。彼は拭かれるままにしていた。
飲み終えて、彼は椀の底を見た。
「……これは、手前の肉だな」
「はい。手前の、毒の弱い方です」
「……四十年、これを埋めた」
彼は椀を返した。
返すとき、彼の左手が震えていた。震える理由は、私のものとは違った。
「……親方」
「言うな」
彼はそれだけ言って、路地を戻っていった。妻が肩を支えていた。
支えられて歩く背中を、ユルゲンが荷車の脇から見ていた。
見てから、彼は荷車の荷台を布で拭き始めた。明日も運ぶための支度である。
拭きながら、彼は一度も顔を上げなかった。
前世の、六畳一間を思った。
壁一面の額。百七枚の合格証。取得年の古い順に、左から並べて、水平は水準器で出した。
あの部屋に、私は一人だった。
百七枚の紙は、誰にもスープを出さなかった。
この路地には、百人いた。百人が、私の資格で切った肉を飲んでいた。
共感力:20 → 28
幸福度:40 → 47
一度に八。この上がり方は、初めてだった。
板に『共感力100?』と書いたのは、半年前である。半年、その行の横に数字は入らなかった。
今日、入った。
入った理由を、私は一つに絞れない。切ったのは私だが、塩を出したのは女将で、草を摘んだのはミラで、肉を運んだのはユルゲンで、手前に置き続けたのはドルフである。
繋げたのが、私のやったことだった。
◇◇◇
列の終わりに、名前のない椀を持った子が残っていた。
六つか七つの女の子である。髪が首のところで切り揃えられていた。自分で切ったのか、誰かが鋏で一度に切ったのか、長さが揃っていなかった。
彼女は椀を両手で持って、底を見ていた。
底には、何も書いていない。
「……あのね」
彼女はミラに言った。
「……なまえ、かいてもいい?」
ミラが匙を置いた。
「書く。……言って」
女の子は、名前を言った。小さい声で、二度言った。一度目は聞こえなかった。
ミラは炭を取って、椀の底に書いた。三文字だった。
書いてから、彼女は椀を返した。
女の子は底の字を見て、それから自分の指で、字の形をなぞった。なぞり方が、アンナと同じだった。
名前を言わない子が、七人から六人になった。
六人のうち何人が、いつ名前を言うのかは、分からない。
分からないが、椀は作れる。底に何も書いていない椀を、ミラは余分に焼いてある。
余分に焼く理由を、彼女は一度も説明しなかった。
説明しないまま、三年、焼き続けている。焼いた椀は、戸棚の下の段に伏せて積んである。
積んである数を、私は数えていない。数えれば、いつか名前を言う子の人数を数えることになる。数えて当たらなければ、彼女が困る。困る数を数えないのも、一つの数え方だった。
◇◇◇
最後の椀を注いだとき、路地の入口に女が立っていた。
髪を後ろできつく束ね、袖を肘までまくった女である。
ヘルガだった。
彼女は私を見ていなかった。列の真ん中を見ていた。
十歳くらいの、痩せた少女が椀を抱えていた。少女はヘルガに気づいて、椀を隠すように抱え込んだ。
「……エルザ」
「……母さん。その、いい匂いがして」
ヘルガは少女の前でしゃがんだ。
椀の中を見た。オークの肋肉。骨。豆。草。
それから、少女の顔を見た。
「……食べなさい。冷めるから」
少女は飲んだ。
ヘルガはしゃがんだまま、手を少女の背中に置いて、それを見ていた。
三十年、受験料を同じ声で読み上げてきた女である。帳簿に残らない七十七人を、同じ声で呼んできた女である。
その女の娘が、廃棄部位のスープを飲んでいた。
(第三部 第四章 了 / 第五章「貴族の宴と神殿の影」に続く)




