第143話 オークスペアリブのハーブスープ
銀のスライム亭の厨房が、匂いで満ちた。
血と、魔素の匂いである。甘いのに、喉の奥が痺れる匂いだ。
マーサが鼻をつまんだ。タビが物置の奥へ引っ込んだ。路地の子どもたちが、窓の外に集まって中を覗いた。
「あんた、本気でこれを食わせる気かい」
「はい。毒を抜けば、食べられます」
「抜けるのかい、こんな匂いのするもんから」
「三つの手順で抜きます」
私は包丁を布から出した。
作業台を一つ、空けてもらった。空けた作業台に、荷車から下ろした肋肉を載せた。
厨房に入りきらない分は、路地に筵を敷いて置いた。筵の上の肉を、タビが物置の隙間から見ていた。
隣の家の窓が閉まる音が、二度した。
三度目は、開いた音だった。
向かいの靴屋の親爺が、戸の隙間から顔を出していた。
「……小僧。うちは革を扱ってるんだ。革に匂いが移る」
「下ごしらえと煮込みが済む、夕方までには消します」
「一刻半」
「煮れば消えます。……消えたら、呼びます」
彼は顔を引っ込めた。引っ込めてから、戸を閉めなかった。
◇◇◇
一つ。除去不能の毒。
毒腺である。切除するしかない。
肋肉の毒腺は、肩肉より細い。だが位置の理屈は同じだった。赤い線。線の縁。壁の外側。
震えを刻む速度に変えて、二本抜いた。抜いた二本を、灰の上で焼いた。焼けば、毒は壊れる。
焼くとき、灰から白い煙が立った。煙を吸わないように、私は顔を背けた。背けたのは、ドルフの右手を見てからの習慣である。
四十日前の私は、煙を吸いながら作業していた。
「……あんた、手が震えてるよ」
「震えています。震えたまま切る方法を、覚えました」
二つ。洗浄で除去できる毒。
表面の毒である。塩水に浸ける。
マーサの一番大きな桶に、水を張った。塩を溶かす量を、私は『栄養分析Lv2』で測った。塩は貴重品である。
彼女は袋ごと出した。何も言わずに出した。
「……女将さん。これは」
「足りないほうが困るだろ」
塩は、下町で一掴み八Gである。桶一つに溶かす量は、三掴みになった。
二十四G。麦粥二杯分の原価が、水に溶けた。
彼女は袋の口を縛り直して、戸棚に戻した。戻すとき、袋の軽さを手で量っていた。
一刻、浸けた。
三つ。加熱で失活する毒。
筋肉の中に薄く回っている毒である。長く煮る。
煮る前に、ヒルダの草を入れた。ニガヨモギモドキの乾燥葉。虫の卵を殺すためである。苦いが、苦いのが薬だった。
煮る時間は、一刻半と決めた。
決めたのは、虫の卵が死ぬ時間と、骨から肉が離れる時間の、長いほうである。虫の卵は半刻で死ぬ。骨は一刻半かかる。
一刻半煮れば、どちらも済む。済むことを、私は板に書いてある。
◇◇◇
鍋が火にかかった。
風の陣を竈に書いた。煙突の炎の陣である。魔力三で、薪の火が五倍になる。
マーサがそれを初めて見た。彼女は鍋の下の炎を、しばらく黙って見ていた。
「……あんたの魔法は、鍋を沸かすためにあるのかい」
「そう、なりつつあります」
肋肉が煮えた。
一刻半で、骨から肉が離れ始めた。骨の髄がスープに溶けて、汁の色が白く濁った。
塩を入れた。豆を入れた。ニガヨモギモドキを入れた。
ミラが路地の隅から摘んできた草を持ってきた。
鍋に入れる前に、私は十二本を一本ずつ確かめた。食用は十本。似た葉をつけた二本は、別の皿によけた。
「この十本だけ、洗ってくれ。残りは後で、一緒に葉の裏を見よう」
洗った十本を、鍋に入れた。
匂いが、変わった。
血と魔素の匂いが消えた。
代わりに立ったのは、肉と、塩と、草と、骨の匂いだった。ハルムの囲炉裏の、冬の鍋の匂いである。年に数度しか肉が入らなかった、あの鍋の匂いだった。
窓の外の子どもたちが、静かになった。
タビが物置から戻ってきて、麦の袋の上に座った。
「女将さん。味を見てください」
マーサが匙を取った。口に入れた。
何も言わなかった。
もう一口、入れた。
「……塩が、足りない」
それだけ言って、彼女は塩を足した。足して、鍋を掻きながら、鼻を啜った。
厨房の煙のせいだと、彼女は後でそう言った。
◇◇◇
夕方、路地に鍋が出た。
百人分である。
ミラが椀を並べた。名前のある椀が二十三。名前のない椀が、七十。足りない分は、桶屋の女房が貸してくれた十枚で埋めた。
鍋は五つ出た。取っ手の折れた古い大鍋が、また一番下に据えられた。
ミラが椀を並べる順を変えていた。名前のある椀を手前に、名前のない椀を奥に置いていたのを、今日は混ぜていた。
「……混ぜたのか」
「うん。……手前と奥があると、奥の子が後ろに並ぶから」
三年、椀を並べてきた娘が、並べる順を変えた。
変えた理由を、彼女は一行で言った。私が四十日かけて板に書いたことと、同じ意味だった。
煮込みを待つあいだに、ミラを作業台へ呼んだ。
先ほどよけた二本と、食用の草を一本、並べて見せた。鍋には、確かめた十本しか入れていない。
「……この二本は、駄目だ」
「え。……同じ形」
「葉の裏の毛が違う。こっちは毛が寝ている。こっちは立っている」
彼女は二本を並べて、葉の裏を指で撫でた。
「……ほんとだ。立ってる」
「立っているほうは、腹を下す」
「……似てるのに」
似ているものを分ける仕事を、私は一年半、この世界でやってきた。
羊を殺した草も、似ていた。
あのときは、羊が死んでから分かった。今は、鍋に入る前に分かる。
一年半で変わったのは、知識の量ではない。確かめる順番だった。
順番を変えたのは、羊が死んだ日である。あの晩、羊は二頭死んでいた。それ以上を失わずに済んだのは、葉の裏まで見て毒草を見分け、群れを別の放牧地へ移したからである。
あの日までに、ヒルダは私に葉の裏を見ることを教えていた。見せてから、「婆は目が悪い。お前が見ろ」と言った。
目の悪い婆が、三十年、村の毒草を分けていた。分け方は、誰の紙にも残っていない。残っているのは、私の板の中だけである。板は濡れれば消える。
西区から子どもが来ていた。噂が走っていた。「東三番通りで、肉のスープ」。
列ができた。路地の軒下から曲がって、下水口の蓋の上まで。
ミラが匙を持った。私が鍋を持った。マーサが厨房の窓から見ていた。
最初の椀を注いだ。
オークの肋肉が、骨ごと一本。豆。草。湯気。
受け取ったのは、ルナだった。
両手で椀を持って、底の『ルナ』の字を指でなぞった。チャが足元で尻尾を振っていた。
彼女が匙を取った。
一口。




