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異世界資格マスター ~最弱村人から始める資格無双。試験分析EXで世界をアップデートします~  作者: 東雲 諒杏
第四章「魔物調理師試験と、スープ一杯」

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第140話 気圧の術式


 作業台の卵に、手のひらをかざした。


 殻を割らずに、中まで火を通す。制限時間は二十分。


 鍋で煮ても間に合わない。ワイバーンの殻は熱を通しにくく、外を熱くするだけでは、中の卵液はなかなか温まらない。


 だから私は、火を使わない。


 風の陣で、卵の周りの空気を押した。


 灰色の殻が、かすかに鳴った。


 力を抜く。押されていた殻が戻る。もう一度、押す。


 硬い殻でも、まったく動かないわけではない。目では分からないほど、わずかにたわむ。その小さな動きを、中の液に伝える。


 押す。緩める。


 術式の輪が明滅し、殻から細い音が続き始めた。


◇◇◇


「……卵を震わせて、どうする」


 試験官が、作業台の脇に来ていた。


「中身を温めます」

「殻を擦っているのか」

「擦れるのは、中です」


 私は陣を保ったまま答えた。


「手を擦り合わせると、温かくなりますね」

「なる」

「液体でも、動いている部分と、動きの遅い部分の間に抵抗があります。殻を細かく揺らすと、中身は全部いっぺんには動けません。少し遅れて、ずれて動きます。その抵抗で、揺らすために使った力が熱に変わります」


 試験官は卵を見た。それから、私の手を見た。


「……外から熱を入れるのではなく、中で熱に変えるのか」

「はい。殻には、熱ではなく、揺れを渡します」


 彼は黙った。


 私はそれ以上、説明しなかった。言葉を足しても、卵は煮えない。


 泉の底を動かすエルフの術式。風を流す陣。力を抜けば元に戻ろうとする、空気と殻。


 別々に覚えたものを、一つの輪に繋いでいる。


 空気を温めることが目的ではない。殻を割るほど強く押す必要もない。細かい揺れを、途切れさせずに中へ送る。


 そのために、私は魔力を使っていた。


◇◇◇


 五分。残りの魔力、二十五。


 卵の底から、作業台へ細い音が伝わっていた。虫の羽に似た音だ。


 押すたびに手を振っているわけではない。手のひらの陣が、押して戻す動きを高速で繰り返す。私は陣に魔力を流し、揺れの強さを調整する。


 最初の実験では、戻すときにも逆向きの力をかけていた。


 今日は、押す力を抜いて待つ。殻が戻る動きに、次の一押しを合わせる。戻りきる前に押せば、力がぶつかる。遅ければ、揺れが弱まる。


 『気流制御Lv1』が、空気から返ってくる小さな変化を、指先へ知らせていた。


 合うところを探す。


 音が、一段澄んだ。


 同じ魔力で、返ってくる揺れが強くなった。


(……ここだ)


 板に残したかった。だが、今は手を離せない。


 私は音を覚えた。


◇◇◇


 十分。残り、十三。


 中が温まったかどうかは、殻に触っても分からない。熱を通しにくい殻なのだから、外側の温度を頼りにするわけにはいかなかった。


 頼れるのは、揺れが返ってくる感触だ。


 練習で割った卵は、中がまださらさらだった。そのときの返りは、軽かった。水を張った桶を揺らすのに似ている。


 今も、軽い。


 隣で、商会の料理人が鍋の蓋を開けた。湯気の向こうで、彼が首を振った。


 私は目を戻した。


 十二分。残り、九。


 右手の震えが大きくなった。


 震えると、手のひらの陣まで傾く。押す場所がずれ、澄んでいた音が濁った。


 左手で、右の手首を支えた。


 午前の包丁と同じだ。止まらない震えを、力ずくで止めようとしない。動かしてはいけないところを、別の手で支える。


 音が戻った。


 十三分。


 指先に、今までとは違う抵抗が来た。


 水の桶だったものが、粥の桶に変わったような、重い返りだった。


(……変わった)


 固まり始めたのかもしれない。


 そう思った瞬間、もっと強く押したくなった。


 押さなかった。


 強くすれば、早く終わるとは限らない。殻が割れれば、その瞬間に不合格だ。中身が変わったなら、力の伝わり方も変わる。


 同じ調子で押し続けるのをやめ、返ってくる感触に合わせて、陣の間隔を少しずつ変えた。


 泉の図に、卵が固まったときのことは書いていない。


 ここから先は、自分で確かめるしかなかった。


◇◇◇


 十五分。残り、五。


 試験官が、砂時計を見た。


「あと五分だ」


 返事をする息を惜しんだ。


 殻の近くが固まっただけなら、中心はまだ生かもしれない。手応えが変わったことと、全部に火が通ったことは、同じではない。


 だが、割って確かめることはできない。


 私は陣の形を保った。押す位置を少しずつずらし、同じ一か所ばかりに力が集まらないようにした。


 十八分。残り、三。


 指先が冷えた。右手を支える左手にも、力が入りにくい。


 十九分。残り、二。


 視界の端が白くなった。


 やめれば、この白さは引くだろう。


 明日の解体場を思った。


 小屋の脇に、右手を吊ったドルフが座っている。山の手前で、ユルゲンが肉を分けている。私が落ちれば、あの場所は閉まる。


 親方は、震えない手を膝に載せて言った。


 二人分で一人だ。


 左手で、もう一度、右の手首を支え直した。


 二十分。残り、一。


「――時間」


 魔力を止めた。


 細い音が消えた。手を下ろすと、作業台の縁に指が当たった。


 卵は、割れていなかった。


◇◇◇


 試験官はまず、殻を一周、調べた。


「亀裂なし。……これより、採点のために開殻する」


 書記が頷いた。筆が動いた。


 鉄の槌が、灰色の殻を叩いた。


 一度。二度。


 割れ目が入った。


 試験官が皿の上で殻を開く。


 中身は、流れなかった。


 黄色い塊が、殻の形を保って皿に載った。切れ目から、細い湯気が立った。


 私はそこで初めて、息を吐いた。


 まだ、試験官は何も言わない。


 小刀を取り、塊を真ん中から二つに割った。


 中心まで、固まっていた。


「……凝固している」


 断面には、小さな穴が点々とあった。元から卵の中にあった空気が、揺らされるうちに細かく混ざったのだろう。詰まったゆで卵より、少し柔らかそうだった。


 試験官が匙で押した。へこみが、ゆっくり戻った。


「これは、何という料理だ」


 私は答えかけて、止まった。


 前世の調理師学校で、隣の班が作っていた、空気を含んだ卵の菓子を思い出した。私は実習台の端で筆記の過去問を解いていた。名前は覚えた。作るところは、見ていなかった。


 今日は、見た。


 最初から、最後まで、自分の手を離さなかった。


「……まだ、名前がありません」


 試験官はもう一度、断面を見た。


「殻に傷をつけず、内部を加熱。中心まで凝固。条件を満たしている」


 彼は書記に向き直った。


「課題二。可」


 筆が、止まった。


 止まって、それから動いた。


 三十年、誰も実際には通せなかった課題に、一つ、可がついた。


 私の右手は、まだ震えていた。


 震えた指で、作業台の縁を握った。


 明日も、あの小屋へ行ける。


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