第140話 気圧の術式
作業台の卵に、手のひらをかざした。
殻を割らずに、中まで火を通す。制限時間は二十分。
鍋で煮ても間に合わない。ワイバーンの殻は熱を通しにくく、外を熱くするだけでは、中の卵液はなかなか温まらない。
だから私は、火を使わない。
風の陣で、卵の周りの空気を押した。
灰色の殻が、かすかに鳴った。
力を抜く。押されていた殻が戻る。もう一度、押す。
硬い殻でも、まったく動かないわけではない。目では分からないほど、わずかにたわむ。その小さな動きを、中の液に伝える。
押す。緩める。
術式の輪が明滅し、殻から細い音が続き始めた。
◇◇◇
「……卵を震わせて、どうする」
試験官が、作業台の脇に来ていた。
「中身を温めます」
「殻を擦っているのか」
「擦れるのは、中です」
私は陣を保ったまま答えた。
「手を擦り合わせると、温かくなりますね」
「なる」
「液体でも、動いている部分と、動きの遅い部分の間に抵抗があります。殻を細かく揺らすと、中身は全部いっぺんには動けません。少し遅れて、ずれて動きます。その抵抗で、揺らすために使った力が熱に変わります」
試験官は卵を見た。それから、私の手を見た。
「……外から熱を入れるのではなく、中で熱に変えるのか」
「はい。殻には、熱ではなく、揺れを渡します」
彼は黙った。
私はそれ以上、説明しなかった。言葉を足しても、卵は煮えない。
泉の底を動かすエルフの術式。風を流す陣。力を抜けば元に戻ろうとする、空気と殻。
別々に覚えたものを、一つの輪に繋いでいる。
空気を温めることが目的ではない。殻を割るほど強く押す必要もない。細かい揺れを、途切れさせずに中へ送る。
そのために、私は魔力を使っていた。
◇◇◇
五分。残りの魔力、二十五。
卵の底から、作業台へ細い音が伝わっていた。虫の羽に似た音だ。
押すたびに手を振っているわけではない。手のひらの陣が、押して戻す動きを高速で繰り返す。私は陣に魔力を流し、揺れの強さを調整する。
最初の実験では、戻すときにも逆向きの力をかけていた。
今日は、押す力を抜いて待つ。殻が戻る動きに、次の一押しを合わせる。戻りきる前に押せば、力がぶつかる。遅ければ、揺れが弱まる。
『気流制御Lv1』が、空気から返ってくる小さな変化を、指先へ知らせていた。
合うところを探す。
音が、一段澄んだ。
同じ魔力で、返ってくる揺れが強くなった。
(……ここだ)
板に残したかった。だが、今は手を離せない。
私は音を覚えた。
◇◇◇
十分。残り、十三。
中が温まったかどうかは、殻に触っても分からない。熱を通しにくい殻なのだから、外側の温度を頼りにするわけにはいかなかった。
頼れるのは、揺れが返ってくる感触だ。
練習で割った卵は、中がまださらさらだった。そのときの返りは、軽かった。水を張った桶を揺らすのに似ている。
今も、軽い。
隣で、商会の料理人が鍋の蓋を開けた。湯気の向こうで、彼が首を振った。
私は目を戻した。
十二分。残り、九。
右手の震えが大きくなった。
震えると、手のひらの陣まで傾く。押す場所がずれ、澄んでいた音が濁った。
左手で、右の手首を支えた。
午前の包丁と同じだ。止まらない震えを、力ずくで止めようとしない。動かしてはいけないところを、別の手で支える。
音が戻った。
十三分。
指先に、今までとは違う抵抗が来た。
水の桶だったものが、粥の桶に変わったような、重い返りだった。
(……変わった)
固まり始めたのかもしれない。
そう思った瞬間、もっと強く押したくなった。
押さなかった。
強くすれば、早く終わるとは限らない。殻が割れれば、その瞬間に不合格だ。中身が変わったなら、力の伝わり方も変わる。
同じ調子で押し続けるのをやめ、返ってくる感触に合わせて、陣の間隔を少しずつ変えた。
泉の図に、卵が固まったときのことは書いていない。
ここから先は、自分で確かめるしかなかった。
◇◇◇
十五分。残り、五。
試験官が、砂時計を見た。
「あと五分だ」
返事をする息を惜しんだ。
殻の近くが固まっただけなら、中心はまだ生かもしれない。手応えが変わったことと、全部に火が通ったことは、同じではない。
だが、割って確かめることはできない。
私は陣の形を保った。押す位置を少しずつずらし、同じ一か所ばかりに力が集まらないようにした。
十八分。残り、三。
指先が冷えた。右手を支える左手にも、力が入りにくい。
十九分。残り、二。
視界の端が白くなった。
やめれば、この白さは引くだろう。
明日の解体場を思った。
小屋の脇に、右手を吊ったドルフが座っている。山の手前で、ユルゲンが肉を分けている。私が落ちれば、あの場所は閉まる。
親方は、震えない手を膝に載せて言った。
二人分で一人だ。
左手で、もう一度、右の手首を支え直した。
二十分。残り、一。
「――時間」
魔力を止めた。
細い音が消えた。手を下ろすと、作業台の縁に指が当たった。
卵は、割れていなかった。
◇◇◇
試験官はまず、殻を一周、調べた。
「亀裂なし。……これより、採点のために開殻する」
書記が頷いた。筆が動いた。
鉄の槌が、灰色の殻を叩いた。
一度。二度。
割れ目が入った。
試験官が皿の上で殻を開く。
中身は、流れなかった。
黄色い塊が、殻の形を保って皿に載った。切れ目から、細い湯気が立った。
私はそこで初めて、息を吐いた。
まだ、試験官は何も言わない。
小刀を取り、塊を真ん中から二つに割った。
中心まで、固まっていた。
「……凝固している」
断面には、小さな穴が点々とあった。元から卵の中にあった空気が、揺らされるうちに細かく混ざったのだろう。詰まったゆで卵より、少し柔らかそうだった。
試験官が匙で押した。へこみが、ゆっくり戻った。
「これは、何という料理だ」
私は答えかけて、止まった。
前世の調理師学校で、隣の班が作っていた、空気を含んだ卵の菓子を思い出した。私は実習台の端で筆記の過去問を解いていた。名前は覚えた。作るところは、見ていなかった。
今日は、見た。
最初から、最後まで、自分の手を離さなかった。
「……まだ、名前がありません」
試験官はもう一度、断面を見た。
「殻に傷をつけず、内部を加熱。中心まで凝固。条件を満たしている」
彼は書記に向き直った。
「課題二。可」
筆が、止まった。
止まって、それから動いた。
三十年、誰も実際には通せなかった課題に、一つ、可がついた。
私の右手は、まだ震えていた。
震えた指で、作業台の縁を握った。
明日も、あの小屋へ行ける。




