第138話 記録は正しくあるべきです
調理場の外の石段に座った。
包丁を布に包んで膝に載せて、ミラの手拭きで指を拭いた。縫い目の糸の色が一か所だけ違う布である。
右手は、まだ震えていた。
膝の上の布を開いて、ルナが渡した握り飯を出した。
麦を挽いて固めたもので、塩が強い。強いのは、塩を惜しまなかったからである。女将の厨房で塩は貴重品だった。貴重品を、今朝、彼女は惜しまなかった。
二口で食べ終えた。食べ終えてから、包みの中に木札が入っていることを、指で確かめた。
石段の下の中庭に、貴族商会の料理人たちが集まっていた。声が上まで届いた。
「あの平民」「震えてた」「震えてたのに壁を破らなかった」「刻んでたぞ。鋸みたいに」「あんな切り方、見たことがない」
見たことがない切り方で、私は三割の肉を残した。
商会の切り方は、毒腺の周りの肉ごと大きく落とす。落とせば汚染はしないが、一体の肩肉から三割が廃棄の桶に入る。
私の切り方は、毒腺だけを抜いた。だから、その三割が肉のまま残っている。
板を開いて、書いた。
『課題一、毒腺分離、汚染なし。
震えを刻む速度に。
深さは左手で決める。上下は震えに任せる』
二か月、探していた方法である。
ドルフの「吐きながら」と、一晩の包丁の音と、『毒判定』の赤い線が、一つになった。三つとも、私が見つけたものではない。
三つを繋げたのが、私のやったことだった。
繋げるのが、私の方法である。
前世の十一年で、私は百七の資格を取った。取った知識は、一つずつ額に入って壁に並んだ。並んだだけだった。
繋げるという作業を、私は一度もしなかった。繋げる相手がいなかったからである。
ドルフも、ミラも、ユルゲンも、私が選んで隣に置いた人間ではない。向こうから隣に来た。
◇◇◇
「――レオン殿」
石段の上に、書記が立っていた。記録板を抱えている。
彼は周りを見た。中庭の声が遠いことを確かめてから、段を二つ降りて、声を落とした。
「午後の課題二ですが。……ワイバーン卵の、殻を割らずに。あれは三十年、誰も通っていません」
「存じています」
「試験官は、課題一が可なら、課題二は『試みた』だけで可にしてきました。……実質、課題一だけの試験です」
彼は記録板の縁を指で押さえた。
「ただ、今年は上から指示があったそうです。『課題二を厳密に採点せよ』と。……三十年、緩かった課題二を、今年、厳密に」
今年。
ルドガーの笑い。財務理事の商会。四十年来なかった監査官が三日で来たこと。第八条。
順に、考えた。
一つ。課題二は、殻を割らずにワイバーンの卵を加熱する課題である。三十年、誰も通っていない。
二つ。これまでは、課題一が可なら、課題二は手をつけただけで可になった。だから毎年、二人か三人は合格した。
三つ。今年は、厳密に採点される。中身が固まっていなければ不可である。
つまり、今年の合格者は、ゼロになる。
ここから先が、私の話だった。
解体場が今日まで開いているのは、第八条第二項の暫定監督がきいているからである。無資格の親方の代わりに、衛生管理士の私が毒性管理を見ている、という形だ。
その期限は、条文にこう書いてある。『次の魔物調理師試験の、実施日までとする』。
実施日は、今日だった。
今日の試験で魔物調理師が一人も出なければ、明日から、あの解体場に監督する者がいなくなる。
いなくなれば、閉鎖される。
鉤に吊るされた肉が廃棄され、山の手前の肉は運ばれなくなり、荷車は東三番通りに来ない。
課題二を厳密に採点するという一言が、下町の鍋まで届いていた。
「……なぜ、それを私に」
書記は記録板を見た。
「レオン殿の備考欄は、私が書いています」
彼は顔を上げた。
「備考欄に『規定外の指示により不合格』と書きたくはありません。……私は記録係です。記録は、正しくあるべきです」
半年前、彼は私の職業欄に「分類不能」と書いた。書くとき、筆が一度止まった。
止まった筆の持ち主が、今日、石段を二つ降りてきた。
「……あなたの資格は」
聞いてから、聞くことではなかったと思った。
「書記です。資格院の、筆記吏。……等級はありません。資格ではなく、雇いです」
「雇い」
「十二年、備考欄を書いています。十二年分の備考欄は、地下の棚にあります。……読む者は、いません」
彼は記録板を抱え直した。
「読む者がいない欄に、嘘を書きたくないんです。……嘘は、読まれないところで増えます」
彼は懐から薬包を出して、水なしで飲んだ。胃の薬だろう。飲んで、調理場に戻っていった。
私は板の右の欄に、一行書いた。
『誰が「厳密に」と言ったか。
……確かめる方法がない』
確かめる方法がない理由は、はっきりしている。
その指示が、紙で出ていないからである。
試験官は「上からの指示だ」と言った。言われたのは口で、受け取ったのも口である。
紙で出た命令なら、地下の棚に残る。棚の文書には、必ず誰かの署名がある。署名のない文書は、三千年分の中に一枚もない。
逆に言えば、紙にしなければ、署名は要らない。署名が要らなければ、誰が決めたかも残らない。
運用だけを口で変えれば、規程は一字も変わらないまま、結果が変わる。
この手口を、三十年前に覚えた者がいる。
受験料を三千Gから一万五千Gに上げたときも、課題は一字も変えていなかった。
◇◇◇
中庭の噴水の縁に、商会の料理人の一人が座っていた。
彼は昼を食べていなかった。食べずに、卵のことを考えているらしかった。
「……おい、平民」
「はい」
「湯に三日浸ければ、少し固まる。知ってるか」
「存じています」
「今日は二十分だ。……二十分で固める方法が、あると思うか」
聞き方が、真面目だった。嘲る声ではなかった。
「あります」
「……あるのか」
「あるかどうかは、二十分後に分かります」
彼は噴水の水を見た。温水魔法でもない、ただの水である。
「俺は十五年、商会の厨房にいる。……十五年、殻を割らずに加熱した卵は、一度も出していない。注文がないからだ」
「注文がなければ、方法は要りません」
「要らん。……要らんものを、なぜ三千年、課題に置いてある」
それは、私も聞きたいことだった。
「三千年前に書いた者が、要らないものを書いたとは思いません」
「じゃあ、何だ」
「そのころは、要ったのかもしれません」
彼は噴水の水で手を洗った。十五年、商会の厨房にいる男の手である。爪が短く、指の腹が厚い。
「……要ったものが要らなくなって、課題だけ残ったのか」
「残った課題を、三十年、誰も通らなかった。……通らなくても誰も困らなかったから、課題は残ったままになりました」
彼は手を拭いた。
「……困らないものは、残る。困るものは、消える。……商会と同じだな」
◇◇◇
板を開き直した。
『卵。十分で、ぬるい』。
ワイバーンの殻は、鉄を叩いた音がする。外から火を当てても、熱は中に通らない。
だから私は、殻の外から空気を押して緩めて、殻ごと小さく揺らすことにした。殻が揺れれば、中の卵液も揺れる。液と液が擦れれば、擦れた分だけ熱が出る。
熱を外から入れるのではなく、中で作らせる。それが先月、禁書棚でたどり着いた理屈である。
十分揺らして、卵はぬるくなった。
ぬるいでは、通らない。中身が固まるまで要る。
魔力は三十七。脈の速さを上げれば、魔力は速く減る。十分で十一減った。凝固まで三十分なら、三十三。足りない。
足りない分を、どこから出すか。
陣の形を、頭の中で開いた。
一回の脈は、二つの動きでできている。押して、緩める。
先月の実験では、その二つの両方に魔力を入れていた。押すのに一、緩めるのに一。一脈で、二である。
十分で十一減ったのは、そのためだった。
(……緩めるのに、魔力が要るか)
押すときは、空気を縮める。縮めるには力が要る。これは要る。
緩めるときは、縮めた空気を戻すだけである。
縮んだ空気は、放せば自分で広がる。戻る力は、空気がもう持っている。
持っているものに、こちらから力を足す必要はない。
抜くだけでいい。抜くのに、魔力は要らなかった。
つまり、一脈で二だったものが、一脈で一になる。
同じ三十七の魔力で、脈を二倍の数、打てる。
ここで、もう一つが効く。
摩擦で出る熱は、擦れる速さの二乗で増える。速さが二倍なら、熱は四倍である。
十分でぬるかったものが、同じ十分で四倍温まる。
凝固まで三十分かかると見ていたものが、計算の上では、八分で届く。
八分なら、魔力は二十に届かない。
試験は、二十分である。
板に書いた。
『押すときだけ魔力。緩めるときはゼロ。
一脈で二→一。脈、二倍。熱、四倍。
……三十分→八分』
計算には、前提が一つある。
液が最後まで、同じように揺れてくれる前提である。
固まり始めた液は、揺れにくくなるはずだった。
どのくらい揺れにくくなるかは、やってみないと分からない。
書いて、板を閉じた。
右手が震えていた。震えたまま、午後の調理場へ戻った。




