第137話 壁を破らずに
「――時間」
十四本の包丁が、まな板の上に置かれた。
試験官は魔導ランプを手に、作業台を一つずつ回った。白い光を断面に当て、覗き、短く言う。
「汚染」「可」「汚染」「可」「可」
声に抑揚はなかった。四十年続いた仕事の、三十年分を担ってきた声である。
商会の五人は、全員が可だった。予備校の六人のうち、可は二人。地方から来た二人のうち、可は一人。
私の作業台が、最後だった。
彼はランプを断面に近づけた。近づけて、覗いた。長かった。角度を変えて、もう一度覗いた。それから皿の上の毒腺を指でつまみ、光にかざした。
灰色の管が、白い光に透けた。
「……壁が、破れていない」
低い声だった。
「三十年、この試験をやっている。壁を破らずに腺だけを出した受験者は、初めてだ」
彼は管を指の上で転がした。
「商会の連中は、壁の外側を大きく切る。周りの肉ごと落とす。それで汚染はない。採点は通る。……だが、肉が減る」
肉が減る。
一体の肩肉から、商会の切り方では三割が落ちる。三割は廃棄の桶に入り、桶は裏の山へ運ばれ、山には木札が刺される。四角の木札である。
四十日、私はその木札を数えてきた。四角の木札が刺された肉は、埋められる。埋める穴を掘るのはユルゲンで、穴は毎月、山の裏に一つずつ増えていた。
試験官は、商会の五人の作業台を順に見た。
五つの作業台の端に、落とされた肉が寄せてあった。どれも握り拳ほどである。五つ合わせれば、椀に五杯は入る。
「……三十年、この部屋で落とされた肉の量を、私は数えたことがない」
彼はそれを、誰にも言っていないような声で言った。
「お前は、肉を減らしていない」
彼は管を皿に戻した。
「……可」
◇◇◇
隣の作業台から、人が覗きに来た。
地方の、日焼けした男だった。彼は私の断面を見て、それから自分の断面を見た。彼の断面も白かった。白いが、毒腺の周りの肉が、親指ほど一緒に落ちていた。
「……あんた、どうやった」
「毒腺の位置が、見えます」
「見える」
「資格のスキルです。……見えない人には、使えない方法です」
彼は少し黙った。
「……俺は十年、村で切ってきた。見えんから、大きく切る。大きく切れば破らん。破らんが、肉が減る。村で、それを『もったいない』と言われる」
「言われても、破るほうが怖い」
「怖い」
彼は自分の手を見た。指の節が太く、爪が短く削られていた。十年、肉を押さえてきた手である。
「……あんた、歳は」
「十五です」
「十五か。……十五で、見えるのか」
彼は自分の断面に戻っていった。戻って、落ちた親指ほどの肉を、まな板の端にきちんと寄せて置いた。
寄せて置く仕草は、ドルフと同じだった。十年の手と四十年の手が、同じ場所に肉を寄せる。
「……待ってください」
私は彼を呼び止めた。社交性九の人間が、自分から人を呼び止めた。
「方法を、紙に書きます」
「……は」
「見えなくても使える部分があります。刃の上下を震えに任せて、深さを左手で作る。……それは、見えなくてもできます」
彼は口を半分開けた。
「……あんた、俺に教えるのか」
「書いて、送ります。村の名を教えてください」
「……なんで」
「教える者がいなかった場所で、三年かかった人を知っています。……三年は、長い」
彼は村の名を言った。北の、麦と羊の村だった。字は読めるのかと聞いたら、読めると答えた。妻が読めると。
私は板に村の名を書いた。板の、右の欄に。
確かめていない欄である。紙が届くかどうかを、私はまだ確かめていない。
◇◇◇
試験官が調理場の中央に立った。
「課題一、可の者は九名。不可の者は、本年度の受験は終了である。……退出せよ」
五人が前掛けを外した。
予備校の揃いの前掛けが、四枚。一か月分の給金で買った十分を、使い切った者たちである。そのうちの一人は、外した前掛けを畳んでから、作業台の断面をもう一度見た。
見てから、出ていった。
残った九人のうち、八人は商会と予備校だった。あとの一人が、十年の手である。
私は十人目だった。
退出する五人のうち、一人が私の作業台の前で足を止めた。予備校の前掛けの男である。
「……あんた、どこの予備校だ」
「行っていません」
「独学か」
「解体場で、二か月」
「解体場」
彼は自分の手を見た。爪が綺麗だった。肉を押さえてきた手ではない。
「……俺は三か月通った。一万二千G。図を百枚覚えた」
「図は、実物とずれます」
「……ずれるって、予備校では言わなかった」
彼は何も言わずに出ていった。
出ていく前に、作業台の自分の断面をもう一度見た。赤黒く染まった面である。
図を百枚覚えた男が、実物の波打ちを一度も見ていなかった。見る機会が、三か月の授業の中になかった。
予備校は図を売る。図は売れる。実物は売れない。売れないものを教えない仕組みが、一万二千Gで三か月回っていた。
◇◇◇
調理場に残った九人が、昼のために外へ出た。
私は作業台に残って、板を開いた。
開いて、午前の十分を書いた。刃を当てた時刻。止まっていた時間。震えの幅。左手で深さを作った瞬間。
書いているあいだ、書記が記録板を持って近くを通った。通って、少し覗いた。
「……それは、何を書いているのですか」
「今日のことです」
「合格のことですか」
「切り方のことです。……合格は一行で済みます。切り方は、二十三行あっても足りません」
彼は記録板を抱え直して、少し笑った。
笑ってから、備考欄のことを言った。
「……備考欄は、一行です。一行に入らないものは、全部落ちます」
「落ちたものは」
「消えます。……十二年、私はそれを見ています」
二十三行は、一行には入らない。
入らないものを残す場所を、私はまだ一つしか持っていない。腰に下げた、炭で書く板である。
板は、濡れれば消える。
消えないところに置く方法を、私はまだ持っていない。持っていないことを、板の右の欄に書いた。
『書いたものを、濡れない場所に残す方法』
右の欄の十行目だった。十行のうち、九行は三日以上そこにある。動かない行が増えるのは、確かめる速さより、気づく速さが上回っているからだ。
退出する五人の足音が消えてから、試験官が言った。
「午後、課題二を行う。……昼を取れ」




