第134話 包丁を握らせる
試験の朝だった。
私は夜明け前に解体場へ行った。行く必要はなかった。試験場は資格院の、上町の調理場だ。解体場に用はない。
だが、行った。
小屋の戸は開いていた。中にドルフがいた。
彼は作業台の前に立っていた。座っていなかった。右手を吊っていなかった。吊るための布を外して、右手を作業台の上に置いていた。
動かない右手を。
「……親方」
「……来ると思った」
彼は私を見なかった。作業台の上の包丁を見ていた。私の包丁。新しい、安い包丁だ。私はそれを毎晩ここに置いて帰る。
「持っていけ。……いや、待て」
彼は左手で包丁を取った。取って、それを右手の掌に載せた。動かない掌に。指は開いたままだった。握れない。
彼は左手で右手の指を一本ずつ曲げた。曲げて、包丁の柄に巻きつけた。
右手が包丁を握った。握らされた。
彼はその手を見ていた。長いあいだ見ていた。四十年包丁を握ってきた手が、握らされている。
「……四十年、この手で切った。三年、震えて。三十七年、震えずに。……最後に握ったのは二週間前だ。あの日の朝、一体切った。白かった。……それが最後だった」
彼は左手を離した。右手は包丁を握ったままだった。指が開かなかった。
「……握れてるな」
「……はい」
「動かん手でも、握らせれば握る。……これでいい」
彼は左手で右手の指を、また一本ずつ開いた。開いて包丁を取り、私に差し出した。
「……握れ」
私は握った。柄は温かかった。彼の、動かない手の温度だった。
右手が震えた。
「……震えてるな」
「はい」
「いい。……吐きながら切れ。壁の外側。二度、曲がる。……卵は知らん。俺は卵を知らん。お前の板が知ってる」
彼は作業台から離れて、小屋の戸口へ歩いた。歩いて、振り向いた。
「……レオン。四十年、俺は資格を馬鹿にしてきた。……今日、初めて資格に頼む。……取ってこい。俺の手が届かん場所に」
私は包丁を握ったまま、頭を下げた。
戸口の向こうで、朝日が昇り始めていた。
ユルゲンが来た。新しい手袋を嵌めて。彼は私の包丁を見た。それから親方の右手を見た。
「……魔法士様。行ってきな」
彼はそれだけ言った。口が達者な少年が、それだけ。
私は解体場を出た。包丁を布に包んで。柄はまだ温かかった。
上町の門で通行証を見せた。備考欄。門番は読まなかった。
資格院の受付に、ヘルガがいた。彼女は私の受験票を検めた。
「……魔物調理師C級。一万五千G」
私は革袋を出して、銀貨を数えた。百五十枚。五十二日分の日当。手袋の六百Gを引いた残りだ。
ブレナの村の金とも、学院の飾りの金とも違う。解体場の匂いのついた銀貨だった。
指が震えた。
ヘルガは私の指を見ていた。銀貨ではなく、指を。ブレナのときと同じように。
「……自分の金だな」
「……はい」
「では、余計なことは言わん。……一万五千G、受領。試験場は奥だ」
彼女はそれだけ言って、帳簿に書いた。書いて、ほんの少し顔を上げた。
「……レオン。ブレナで、私はお前に『三つ受けるのか』と聞いた。……今日は一つだな」
「……一つです。……たぶん、一番重い一つです」
彼女は頷いた。頷いて、次の受験者を呼んだ。
私は奥へ歩いた。包丁の布を握って。柄はまだ温かかった。
(第三部 第三章 了 / 第四章「魔物調理師試験と、スープ一杯」に続く)




