第122話 アンナとミラ
「――あの。ミラさん、ですか」
銀のスライム亭の戸口に、アンナが立っていた。
学院の粗末な上着。短い髪。彼女は下町のこの食堂に初めて来た。西区からは遠くない。だが、東三番通りは彼女の路地ではなかった。戸口から一歩入るのに、少し迷っていた。
「アンナ! ……わあ、学院の人が来た」
ミラは厨房から飛び出してきた。
二人は夏の西区の洗濯屋の裏で会っている。囲炉裏の煙の中で。ミラが歌って、アンナが匙を運んだ。それきり、会っていなかった。
「……母が、麦粥のお礼を、と。……これ、洗濯屋の石鹸の切れ端で」
アンナは小さな包みを出した。石鹸。下町では高級品だ。切れ端でも。
「わあ! ありがとう! 女将さん、石鹸!」
ミラはそれを厨房へ持って走った。走って、戻ってきた。戻ってきて、アンナの手を取った。
「座って。麦粥、出す。……四十Gだけど、アンナはただ」
「そんな」
「ただ。女将さんが、『あの子の母さんは、うちの客だ』って」
アンナは長机の隅に座った。私は皿を洗いながら、それを見ていた。
二人は話した。西区の母のこと。囲炉裏の窓のこと。学院の屋根裏のこと。
ミラは学院を知らない。アンナは食堂を知らない。二人は互いの知らない場所の話を、麦粥を挟んでした。
「……ミラさんは、字が書けるんですね。あの、椀の」
「レオンに教わってる。……まだ、へた」
「私も、字は学院で初めて、ちゃんと習いました。……母は書けないから」
アンナは麦粥の椀を持った。両手で包むように持った。
「……ミラさん。私、二年後に治癒士を受けます。……八万G。母の洗濯の給金で。……レオンが、二年で方法を探すって」
「治癒士! すごい!」
「……すごくないです。魔力、四で。受かるかどうかも」
ミラは匙を止めた。
「……アンナ。私、試験、受けられないの。願書で弾かれる。……だから、アンナが受けるの、すごい。受けられるだけで、すごい」
アンナは椀を置いた。
「……ごめんなさい。私」
「謝らないで。……ねえ、アンナ。治癒士になったら教えて。……匙で届かない場所に、届く方法」
アンナの目が大きくなった。椀に伸ばした手が、途中で止まっていた。
その言葉を最初に言ったのは、アンナだった。秋の夜の実技場で、手のひらに細い炎を立てながら、私に言った。「西区の路地に、まだ座ってる子がいます。匙が届かない子が」と。
私はそれを、その夜のうちに板に写した。『アンナ。匙で届かない場所に届く方法を、知りたい』。
ミラは字の練習に、私の板を読む。四十の字を覚えてから、読める行が、少しずつ増えていた。
「……なぜ、それを」
「レオンが板に書いてた。アンナの言葉だって」
ミラは匙を持ち上げた。木の匙。西区の囲炉裏でも、この路地でも、彼女が水を運んできた匙を。
「……私、これしかないから。熱の出た子に、水を運ぶ。塩をひとつまみ入れて、少しずつ。……それで下がる熱は、下がる。下がらない熱は、下がらない。……匙で届かないところがある。それが、悔しくて」
ミラは笑った。悔しい、と言いながら笑った。
「二年後、教えて。……私、その頃には字がもっと上手になってる。アンナの教えてくれたことを、書けるように」
アンナは麦粥を食べた。食べて、それから言った。
「……ミラさん。魚、捌けますか」
「え? うん。川魚なら」
「教えてください。……治癒士の実技は『縫合』です。魔力神経を縫う。……縫うには、切る場所を知らないと。……レオンが、『魚の身と骨の間を分ける感覚と、似ている』って」
私は皿を洗う手を止めた。
それは私が板に書いた仮説だった。誰にも言っていない。アンナは板を読んでいた。夜の実技場で。
ミラは立ち上がった。
「じゃ、明日の朝。市場で魚を買う。……三人で切ろう。レオンも」
私は右手を見た。震えていた。だが、頷いた。




