第112話 麦粥の切り方でいいんだよ
調理士D級の試験は、五日後だった。
五日間、私は毎朝、魚を切った。切れなかった。
包丁を頭の後ろに当てる。止まる。ミラが隣で切る。三十秒。私は止まったまま。
三日目、包丁が少し動いた。頭の後ろに刃が入って、骨に当たった。当たったところで止まった。
四日目、背骨に沿って五センチ動いた。五センチで止まった。
五日目の朝。試験の朝。
私は魚を切らなかった。切らずに、下町の受付棟へ行った。
試験場は受付棟の裏の小さな調理場だった。長机が三つ、竈が三つ。受験者は七人。下町の若い女が四人、行商の小僧が一人、宿屋の倅が一人。そして、私。
試験官はあの老いた、目の悪い役人だった。スライム鑑定士のときの。彼は私の願書を鼻先まで近づけて読んだ。
「……調理士? 魔法士様が?」
「はい」
「今年、変なのばかりじゃ」
筆記は満点だった。食品衛生。栄養。調理理論。前世の調理師免許の範囲そのままだった。
実技。
まず野菜の千切り。人参だった。私は切った。手は震えていた。震えていたが、人参は切れた。人参は私を殺していない。
千切りは太かった。老役人は「ま、及第じゃ」と言った。
魚。
まな板の上に川魚が置かれた。銀の鱗。濡れた目。
私は包丁を握った。
止まった。
砂時計が返された。三分。三分で三枚におろす。
私は包丁の先を頭の後ろに当てた。当てて、止まった。
一分。
隣の受験者が切り終えた。二分。行商の小僧が切り終えた。私の包丁は頭の後ろに当たったまま、動かなかった。
老役人が砂時計を見た。
「……あと、一分じゃ」
頭の中で手順が流れていた。完璧な手順が。手は動かなかった。
そのとき――
「――レオン!」
調理場の窓の外から声がした。
ミラだった。窓の格子に顔を押しつけている。籠を抱えたまま。炊き出しを放り出して走ってきたらしかった。
「レオン! 麦粥の切り方で、いいんだよ!」
麦粥の切り方。
私は彼女を見た。
「レオン、いつも麦粥に入れる野菜! あれと同じでいいの! 綺麗に切らなくていい! 食べられれば、いいの!」
食べられれば、いい。
私はまな板を見た。魚を見た。
この魚はもう死んでいる。この魚を殺したのは私ではない。
私がこれからやるのは、殺すことではない。食べられるようにすることだ。綺麗にではなく。正しくではなく。
食べられるように。
三十秒。
包丁が動いた。
頭の後ろから背骨に沿って尾へ。震えていた。刃が骨に引っかかった。引っかかったまま押した。身が裂けた。綺麗ではなかった。骨に身がたくさん残った。魚を返す。もう一回。震えて、裂けて、残って。
三枚。
砂時計の最後の砂が落ちた。
まな板の上に、三枚のぼろぼろの魚があった。ミラの三十秒の三枚とは、似ても似つかなかった。
老役人がそれを鼻先まで近づけて見た。しばらく、角度を変えて何度も見た。
「……ひどい、三枚じゃ」
私は頭を下げた。
「……じゃが、三枚じゃ。骨に身が残っとる。刃が逸れとる。……だが、食えん部位が身に混じっとらん。骨も、鱗も、内臓も、身の側に入っとらん。……調理士の実技の合格基準は、『食用可能な状態に分けること』じゃ。綺麗さは、基準にない」
彼は羊皮紙に印を押した。
「合格。……ぎりぎりの、な」




