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異世界資格マスター ~最弱村人から始める資格無双。試験分析EXで世界をアップデートします~  作者: 東雲 諒杏
第五章「魔法士試験と魔導気象士」

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111/166

第111話 包丁を握る


 朝、厨房に魚が一匹あった。


 川魚だ。三十センチほど。銀の鱗。目が濡れている。ミラが市場で買ってきた。八十G。今の下町で八十Gの魚は、贅沢だった。

 マーサは何も言わなかった。言わない代わりに、包丁を二本まな板の上に置いた。一本は彼女の使い込んだ包丁。もう一本は新しい、安い包丁だった。


「新しいほうは、あんたのだ。……給金から引く」


 私は新しい包丁を見た。柄は木。刃は鉄。前世の和包丁とは形が違う。だが、包丁だった。


 握った。


 手が震えた。


 震えは、木剣のときとも魔光棒のときとも違った。あれは緊張の震えだった。これは――


 蛍光灯。まな板。白い身。「理論上、私の包丁さばきに死角はない」。


 あの夜の私の手は、震えていなかった。


「レオン」


 ミラの声がした。彼女は隣で、もう一匹――マーサが追加で出した小さい魚――をまな板に置いていた。


「私、先に切るね。見てて」


 彼女は包丁を握った。彼女の手は震えていなかった。慣れた手だった。七つのときから、十年。


 魚の頭の後ろに包丁を入れる。骨に当たる。当たったところで刃を寝かせる。背骨に沿って尾へ。一回。魚を返す。もう一回。


 三枚。


 彼女はそれを三十秒でやった。


「……はい。次、レオン」


 私は魚を見た。銀の鱗。濡れた目。


 包丁の先を頭の後ろに当てた。当てたところで、手が止まった。


 止まった。動かなかった。


 頭の中で手順が流れた。教本の手順。前世の実習の手順。完璧だった。完璧な手順が頭の中で流れていて、手だけが動かなかった。


(……切った後)


 切った後、これを誰が食べる。ミラが食べる。ルナが食べる。トビが。

 私はこの魚を、正しく切れるのか。正しく切ったつもりで、何かを見落として、その何かで誰かが――


 流し台。水洗い。「ほんの少し、雑に」。


「レオン」


 ミラの声が遠かった。


「レオン。手、止まってる」

「……ああ」

「……切れない?」

「……分からない。手順は分かる。でも、手が」


 私は包丁を置いた。置いて、自分の右手を左手で押さえた。震えは止まらなかった。


 厨房の火の前で、マーサが鍋を掻いていた。彼女はこちらを見なかった。見ないまま、言った。


「……あんた、魚で誰か殺したことがあるのかい」


 厨房が静かになった。鍋の音だけが続いていた。


 私は答えられなかった。答えられないことが、答えだった。マーサは鍋を掻き続けた。


「……そうかい」


 柄杓が鍋の底を擦る音だけが、厨房に残っていた。


「……私は、人を殺しちゃいない。……だが、直すつもりで、傷つけたことはある。……治癒士の試験さ。模擬の魔力回路に手をかざして、縫うはずのところを、焼き切った。三度受けて、三度焼いた。……三度で、諦めた」


 彼女はそれを初めて言った。ミラも初めて聞いたらしく、手を止めていた。


「……あのとき、私の手も、止まったんだよ。三度目の前の晩から。……手順は頭にあった。教本を三度読んだからね。頭にあって、手が動かなかった。……あんたと、同じだ」


 彼女は鍋から柄杓を上げた。


「……諦めて、食堂を始めた。……食堂の包丁は、何も殺さない。魚はもう死んでる。……この包丁で死ぬものは、この厨房に一つもない。殺すのは、腹の減った子どもの飢えだけだ」


 彼女は、また鍋を掻いた。


「……切りな。魚はもう、死んでる」


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