第111話 包丁を握る
朝、厨房に魚が一匹あった。
川魚だ。三十センチほど。銀の鱗。目が濡れている。ミラが市場で買ってきた。八十G。今の下町で八十Gの魚は、贅沢だった。
マーサは何も言わなかった。言わない代わりに、包丁を二本まな板の上に置いた。一本は彼女の使い込んだ包丁。もう一本は新しい、安い包丁だった。
「新しいほうは、あんたのだ。……給金から引く」
私は新しい包丁を見た。柄は木。刃は鉄。前世の和包丁とは形が違う。だが、包丁だった。
握った。
手が震えた。
震えは、木剣のときとも魔光棒のときとも違った。あれは緊張の震えだった。これは――
蛍光灯。まな板。白い身。「理論上、私の包丁さばきに死角はない」。
あの夜の私の手は、震えていなかった。
「レオン」
ミラの声がした。彼女は隣で、もう一匹――マーサが追加で出した小さい魚――をまな板に置いていた。
「私、先に切るね。見てて」
彼女は包丁を握った。彼女の手は震えていなかった。慣れた手だった。七つのときから、十年。
魚の頭の後ろに包丁を入れる。骨に当たる。当たったところで刃を寝かせる。背骨に沿って尾へ。一回。魚を返す。もう一回。
三枚。
彼女はそれを三十秒でやった。
「……はい。次、レオン」
私は魚を見た。銀の鱗。濡れた目。
包丁の先を頭の後ろに当てた。当てたところで、手が止まった。
止まった。動かなかった。
頭の中で手順が流れた。教本の手順。前世の実習の手順。完璧だった。完璧な手順が頭の中で流れていて、手だけが動かなかった。
(……切った後)
切った後、これを誰が食べる。ミラが食べる。ルナが食べる。トビが。
私はこの魚を、正しく切れるのか。正しく切ったつもりで、何かを見落として、その何かで誰かが――
流し台。水洗い。「ほんの少し、雑に」。
「レオン」
ミラの声が遠かった。
「レオン。手、止まってる」
「……ああ」
「……切れない?」
「……分からない。手順は分かる。でも、手が」
私は包丁を置いた。置いて、自分の右手を左手で押さえた。震えは止まらなかった。
厨房の火の前で、マーサが鍋を掻いていた。彼女はこちらを見なかった。見ないまま、言った。
「……あんた、魚で誰か殺したことがあるのかい」
厨房が静かになった。鍋の音だけが続いていた。
私は答えられなかった。答えられないことが、答えだった。マーサは鍋を掻き続けた。
「……そうかい」
柄杓が鍋の底を擦る音だけが、厨房に残っていた。
「……私は、人を殺しちゃいない。……だが、直すつもりで、傷つけたことはある。……治癒士の試験さ。模擬の魔力回路に手をかざして、縫うはずのところを、焼き切った。三度受けて、三度焼いた。……三度で、諦めた」
彼女はそれを初めて言った。ミラも初めて聞いたらしく、手を止めていた。
「……あのとき、私の手も、止まったんだよ。三度目の前の晩から。……手順は頭にあった。教本を三度読んだからね。頭にあって、手が動かなかった。……あんたと、同じだ」
彼女は鍋から柄杓を上げた。
「……諦めて、食堂を始めた。……食堂の包丁は、何も殺さない。魚はもう死んでる。……この包丁で死ぬものは、この厨房に一つもない。殺すのは、腹の減った子どもの飢えだけだ」
彼女は、また鍋を掻いた。
「……切りな。魚はもう、死んでる」




