第110話 調理士試験の要項
「魔物調理師C級の受験条件だ」
夜、板の前で、私は図鑑を開いていた。ミラが隣で日記を書いている。彼女は毎晩それを書く。字はまだへただと、本人が言う。炭の芯を舐めてから書くので、口の端がいつも黒い。
『魔物調理師(C級) 受験条件:調理士(D級)の、保有』
調理士。
私はその三文字を見た。
前世の百七枚のうちの一枚だ。調理師免許。取ったのは三十歳の春。試験は筆記だけだった。食品衛生と、栄養学と、調理理論。実技はなかった。
この世界の調理士D級には、実技があった。
『調理士(D級)』
受験料:3,000G 合格率:42%
試験内容:筆記(食品衛生・栄養・調理理論)
実技(野菜の千切り/魚の三枚おろし)
試験地:王都下町受付棟 秋期
魚の、三枚おろし。
「魚」の一文字が目に入った瞬間、胃が締まった。
魚。まな板。包丁。白い身。
私は図鑑を閉じた。閉じて、また開いた。表示は変わらない。魚の三枚おろし。調理師なら当然の基礎技術だ。前世の私は調理師学校の実習でそれをやった。やって、できた。フグは、その延長線上にあった。
延長線の先で、私は死んだ。
「……レオン? 顔、また白い」
ミラが日記から顔を上げた。
「……調理士の試験に、魚が出る」
「魚? 魚が嫌いなの?」
「……嫌いじゃない。ただ、その」
言葉が出なかった。
前世でフグに当たって死んだ、とは言えない。言えないが、言わなければこの震えを説明できない。説明できないまま、私は右手を机の上に置いた。手は震えていた。図鑑の「魚」の字を見てから、ずっと。
ミラはその手を見た。
「……前にも震えてた。魔物調理師の話をしたとき」
「……ああ」
「魚を切るのが、怖いの?」
「……切るのは怖くない。切った後が、怖い」
それは、私が初めて口にした言葉だった。切った後。切ったものを、食べる誰かが。
ミラはしばらく黙っていた。それから日記に何かを書いて、閉じた。
「……レオン。私、魚、捌けるよ」
「……え?」
「女将さんに教わった。七つのときから。川魚だけど。……三枚おろしって、あの、背骨に沿って二回切るやつでしょ」
彼女はそれを当たり前のように言った。資格がない彼女が。願書の段階で弾かれる彼女が。
「明日の朝、魚を一匹買ってくる。……レオンが切る。私が隣で切る。……同じ魚を」
同じ魚を。
私は彼女の顔を見た。彼女は笑っていなかった。笑っていないミラを、私はあの聖水の話のとき以来、初めて見た。
「……ミラ」
「私、資格ないから。試験、受けられないから。……レオンが受けて。私の分も」
彼女は日記を抱えて物置を出ていった。
私は板に書いた。『調理士D級。実技、魚の三枚おろし。……ミラが、隣で切る』。
書いた字が、震えていた。




