第11話 村人E級試験 ―村の掟を諳んじる―
刻印日の朝、ハルム村は鶏を三羽つぶした。
広場には長机が出され、女たちが夜明けから鍋を火にかけている。豆と鶏のごった煮の匂いが、藁葺き屋根の間を漂っていた。ペーターは暗いうちから広場をうろうろして、鍋の番の女たちに三度追い払われたらしい。
年に二度の刻印日は、王国中で畑も鍛冶場も止まる日である。この日だけは、領主も納め物の催促をしない。農繁期の真ん中に休みを入れる祝祭を、三千年、誰も削らなかった。制度というものは、祭りになると丈夫になるのだと思った。
十五の儀。今年の受験者は三人――リーゼ、鍛冶屋の倅トマスの弟エミル、そして私である。
エミルは朝から掟を小声で唱え続けていて、唱えすぎて途中で第一条に戻れなくなっていた。私が「落ちた者はいない」と言うと、「だから怖いんだって」と、半月前と同じ返事が来た。
昼前、領主庁の下級審査官が到着した。
ロバに揺られてきた、疲れた顔の中年の役人だった。名をヴィムと言った。彼はロバから革の鞄と、布で厳重に包んだ銀の水盆を降ろし、村長と二言三言交わすと、広場の長机の奥に座った。
それだけで、広場の空気が改まった。
百二十人の村にとって、王国の制度が目に見える形でやってくるのは、年にこの日だけなのだ。女たちは鍋の前で背を伸ばし、男たちは帽子を取った。ロバの脇腹に『領主庁』の焼き印が入っているだけで、そのロバまで少し偉そうに見えた。
「では、始める。――リーゼ・ハルツ、前へ」
試験は口頭試問である。村の掟三十二条から三問、農事暦から二問、納税義務から一問。
リーゼはよどみなく答えた。五つの頃から言える、というのは本当らしい。答え終わって席に戻るとき、彼女の母が前掛けで目を押さえていた。
エミルは農事暦で一度つかえた。十数えるほどの沈黙があって、ヴィム審査官は羽根ペンを置き、「ゆっくりでよい」と言った。エミルは詰まった息を一度吐いてから、正しく答えた。
過去十年、不合格者ゼロ。この試験は、落とすための試験ではない。落とさないために審査官が待つ試験である。待ってくれる役人の顔を、私はよく見ておこうと思った。
「――レオン、前へ」
膝が、こつんと机に当たった。五十人の目。社交性2の心臓が、いつもの仕事を始める。
「村の掟、第七条」
「『井戸の縁で洗い物をしてはならない』」
「第十九条」
「『火は、寝る前に灰をかぶせる』」
「では、農事暦。豆を蒔くのは」
「雪解けから二度目の満月まで。……ただし」
言うつもりのなかった言葉が、口から出た。ヴィム審査官の眉が、ぴくりと動く。
「ただし?」
「今年は雪解けが早いので、暦どおりだと遅いかもしれない、と、畑のガルテンさんが言っていました。……すみません。質問の答えは『雪解けから二度目の満月まで』です」
広場のどこかで、ガルテン爺さんの笑い声がした。
ヴィムは口の端を少しだけ緩め、羊皮紙に何かを書き付けた。書くときだけ、疲れた顔が仕事の顔になった。
「結構。――三名、いずれも合格とする」
拍手と歓声。そして刻印である。
ヴィムが銀の水盆の布を解くと、澄んだ水がわずかに光を帯びていた。神殿から分けられた聖水だという。リーゼから順に、水盆に右手を浸す。浸した手の甲に、一瞬、淡い紋様が浮かんで消える。魂への刻印。これで彼女は、王国の記録上も、ハルムの村人になった。
エミルが浸す。紋様が浮かぶ。兄のトマスが、人目を気にせず弟の頭を叩いた。
私の番が来た。
水は、ひやりと冷たかった。手の甲に紋様が浮かび――
次の瞬間、広場に、高らかなファンファーレが鳴り響いた。
どこの楽隊が、と全員が振り向いた先には、楽隊などいない。音は、私の頭上の空中から降っていた。金色の光の粒が私の周りを螺旋に舞い上がり、光でできた文字の帯が、ぐるりと展開する。
♪♪♪
【資格取得】『村人(E級)』
→ 能力上昇:HP+10 知力+1
→ スキル獲得:『農事暦 Lv1』
→ 職業解放:『村人』
保有資格:1 / 12,000
「ひっ」
最初に腰を抜かしたのは、村長オルバンだった。続いて女たちが鍋の柄杓を取り落とし、ペーターが「うわああ光った!」と飛び上がり、ヴィム審査官は水盆を抱えたまま椅子ごと後ずさった。ロバまで鳴いた。
「な、なんだ今の音は」「レオンが光ったぞ」「呪いか」「いや祝いの音だろ、めでたい音だった」
「めでたい音に腰抜かすな、村長」
「お前も抜かしとるだろうが」
私はといえば、光の帯の中で、感極まって動けずにいた。
(これが……この世界の、合格発表……!)
掲示板の受験番号でもなく、簡易書留でもなく、天からのファンファーレと金の光。資格取得を、世界そのものが祝ってくれる。
前世で百七回合格して、私は一度も、誰からも祝われなかった。通知を見て、一人で息を吐いて、次の願書を取りに行った。その繰り返しを十一年続けた男の頭上で、今、楽隊が鳴っている。
泣くわけにはいかなかったので、私は空を見上げた格好のまま、しばらく動かなかった。
「レ、レオン。今のは、何だ」
ヴィムが、水盆を抱えたまま尋ねてくる。私は正直に、しかし言葉を選んで答えた。
「分かりません。ただ……嬉しい、です」
嘘ではない。半分は。
ヴィムはしばらく私を眺め、それから羊皮紙の備考欄に長々と何かを書き、最後に、妙なところで役人らしいことを言った。
「祝いの席だ。深くは問わん。だが登録上、確認せねばならんことが一つある。お前の職業欄だ」
彼は登録簿を私に向けた。羽根ペンの先が、私の名前の横の欄を指している。
『職業:村人/プロジェクトマネージャー(?)』
「この、後ろのやつは何だ。領主庁の職業台帳に、こんな職名は存在せんのだが」
説明できるはずもなかった。
「……計画を立てる係、のようなものかと」
「計画を立てる係」
「はい」
「村人が立てる計画は、畑の順番だけだ。それは『村人』の職能に含まれる」
「……では、それで」
「含まれるなら、この欄は要らん。要らんものが生えてきたから、困っとるんだ」
ヴィムは眉間を揉み、十数えるほど唸ってから、『分類不能』の印を押した。
王国の官僚制と私の前世の、記念すべき最初の衝突であった。印を押された欄を、私は少し誇らしく眺めてしまった。たぶん、後で苦労するのに。
◇◇◇
宴が始まった。鶏三羽のごった煮は、湯気の向こうで奪い合いになった。ペーターは私の隣に陣取り、「もっかい光って」と十回は言った。十一回目に、リーゼが弟の口に肉を詰めた。
その宴の輪の少し外で、リーゼが自分の手の甲を、じっと見つめていた。刻印の紋様は、もう消えている。
「……あんたのは、音が鳴るのね」
彼女の声は、拗ねているような、それだけではないような響きをしていた。
「私のは、鳴らなかった」
私は、何と答えるべきか分からなかった。分からないまま、ごった煮の椀を彼女に差し出した。リーゼは受け取り、それきりその話はしなかった。
◇◇◇
夜、納屋の藁の上で、私は取得したばかりの『農事暦Lv1』の中身を確かめた。頭の中に、ハルム周辺の作付け暦が、綺麗に整理されて収まっている。便利だ。便利だが――昼間のリーゼの手の甲が、なぜか目の裏に残っていた。
同じ試験に受かって、私だけ、音が鳴る。
この差の意味を、このときの私は、まだ深く考えていなかった。
宴の火が低くなった頃、広場の外から、誰かが走ってくる足音が聞こえた。




