第105話 倒れた子どもと、三十万G
秋が下町に来た。
秋は収穫の季節のはずだった。ハルムの村なら、今ごろリーゼの母が干し肉を作っている。軒下に吊るした肉が、夜のうちに凍って、昼にまた緩む。そういう季節だ。
だが、王都の秋は違った。
パンが百五十Gになった。
夏の初めには、黒パン一つ六十Gだった。それが秋の初めに百五十G。
ヨナスの荷馬車が王都に来なくなった。街道の山賊が増えた。南の穀倉地帯の麦が三年続けて不作だった。魔導農薬で死んだ土の話を、私はブルーノから聞いていた。あの畑の黒い土が、今、パンの値段になって下町に降りてきていた。
「――百五十Gなんて、払えるかい」
銀のスライム亭の厨房で、マーサがパンの袋を叩いた。袋から白い粉が舞った。
「麦の値段が倍だ。麦粥、三十Gじゃ赤字だよ。……四十に上げる」
「……四十でも、来ますか」
「来るさ。来て、一杯を三人で分ける。……それが、今の下町だ」
その日の昼だった。
食堂の長机で、女が倒れた。
子どもを抱えていた。五つくらいの男の子だ。女は麦粥を一杯頼んで、それを子どもに全部食べさせて、自分は食べずに立ち上がろうとして、そのまま横に倒れた。皿が長机の上で回った。
私は洗いかけの皿を置いて駆け寄り、図鑑を向けた。
名前:(不明) 年齢:31歳
HP:11 / 48
状態異常:魔力欠乏症(重度)/栄養失調
魔力欠乏症。
図鑑の病気の項にあった。「魔力回路の萎縮。倦怠、貧血、子どもの発育不全。貧困層に多発」。治療は治癒士による魔力回路の再生。診察、三十万G。治療、五十万G。
私は女の顔を見た。青白い。唇が白い。爪も白く、形が少し反っていた。
前世の医学の教科書。鉄欠乏性貧血。匙状爪。
(……魔力の欠乏じゃない)
いや、魔力も欠乏しているのだろう。だがそれは結果だ。原因は鉄と、たんぱく質と、ビタミンだ。麦粥だけを三年食べ続けた身体がここにある。
「――女将さん。塩肉のスープを。豆を多めに」
マーサは何も聞かずに鍋へ向かった。ミラが女の頭を膝に乗せた。子どもが母親の袖を握って泣いていた。泣き方が小さかった。大声で泣くと叱られることを、もう覚えている泣き方だった。
スープが来た。私は匙で女の口に運んだ。一口。二口。女の目が少し開いた。
「……あんた、治癒士かい」
彼女は掠れた声で聞いた。
「……違います」
「じゃあ、この、スープは、いくら」
「五十Gです」
「……五十」
彼女は目を閉じた。閉じて、笑った。乾いた笑いだった。
「三十万Gの診察を受けたら、あの子の一年分のパンが消える。……五十Gなら、明日も来られる」
彼女はスープを飲んだ。全部飲んだ。それから子どもの手を引いて帰っていった。
帰るとき、ミラが黒パンを一つ袋に入れた。マーサは見ていなかったふりをした。
私は長机に座って、板を開いた。
『魔力欠乏症=鉄・たんぱく質・ビタミンの欠乏? 麦粥では足りない。肉が要る。……肉は、百五十Gのパンより高い』
肉。
下町で肉は貴族の食べ物だった。牛も豚も鶏も。一切れ二百G。
だが、私は知っていた。この町には毎日、肉が捨てられている。解体場の裏に。毒があるから、というそれだけの理由で。
図鑑を開いた。『魔物調理師(C級)』。受験料、一万五千G。
私の財布には、三百二十Gしか入っていなかった。




