3話 消える少女
その不協和音は、頭上高くに設置されたスピーカーの破砕音とともに唐突に吐き出された。
《緊急警報。緊急警報。第四区画外壁に位相異常を検知。市民はただちに一次避難層へ移動してください。繰り返す――》
無機質なアナウンスが不規則に途切れ、取調室の白い壁が激しい震動に見舞われる。
天井の照明が数回激しく明滅したかと思うと、音を立てて弾け飛び、室内は一瞬にして漆黒の闇へと投げ出された。
直後、壁面の非常灯が作動し、鈍い赤色の光が回転しながら、狭い室内を不気味な血の斑模様に染め上げていく。
「な……なんだ、何が起きている!?」
先ほどまでレオンに対して高圧的な尋問を続けていた警備主任が、膝を震わせながら机の上の記録端末を床に叩き落とした。
立ち並ぶ警備兵二人が慌てて腰の自動小銃を引き抜き、安全装置を解除する。しかし、その銃口は空を切るばかりで、どこへ向けられるべきかの標的すら定まっていなかった。
ゴゴゴ、とエリシュオンの巨大な構造骨組みそのものが軋みを上げる重低音が、足底を通して頭へと直接響いてくる。
「警備本部!応答しろ、こちら第十二取調室! 外部の状況はどうなっている!」
『――ノイズ――第二……突破……不確定位相体……――』
通信機から吐き出されたのは、悲鳴と金属破砕音、そして激しいノイズだけだった。
次の瞬間、取調室の防爆加工が施された厚い側壁が、内側から風船のように膨れ上がり、猛烈な爆風とともに内側へ向かって弾け飛んだ。
飛散するコンクリートの破片と粉塵の煙幕の中から、それ(・・)は現れた。
人間の形とはかけ離れた異形。昆虫の四肢と頽廃した鉱物の結晶を無秩序に接ぎ木したような、全長三メートルを超える歪な体躯。
その表面はテレビの砂嵐のように不規則に乱れ、まるで現実の空間に肉体の一部しか存在していないかのように輪郭が絶えずブレ続けていた。
「ネメシス……! バカな、居住ドーム内部にまで侵入されたというのか!?」
「撃て! 撃ち殺せぇッ!」
パニックに陥った警備兵が引き金を引く。甲高い掃射音が狭い室内を満たし、無数の徹甲弾が放たれて異形の巨躯へと集束した。
だが、放たれた弾丸は異形の体を滑り、あるいは最初からそこに何も存在していなかったかのように身体をすり抜けて、後ろの金属壁を虚しく穿つだけだった。
火花と跳弾の甲高い音が響くだけで、異形には傷一つ付かない。
実体を持たない悪夢を相手にしているかのように、人類の兵器はただ空間を削るだけの玩具と化していた。
「ひっ……うわあぁぁぁッ!」
異形が動き出し、鎌のような腕を振り下ろす。一瞬にして警備兵の胸部が貫かれ、次の瞬間、その肉体の中央部分が最初からこの世界に存在していなかったかのように削り取られて消失した。断面から噴き出す鮮血が床を汚し、残された肉体が崩れ落ちる。
「くそっ……こんなところで……!」
レオンは、パイプ椅子に拘束されたまま歯を食いしばった。
背後の壁は崩壊し、出口は炎に包まれている。警備主任は腰を抜かして這いずりながら廊下へと逃げ出し、残された兵も悲鳴を上げて散っていった。
感情の伺えない光る眼孔を向け、異形の爪がレオンの頭上へと振り下ろされる。
死の予感が背筋を駆け上がった。自分がここで死ねば、濡れ衣を着せられたまま、リアを残して消えることになる。せめてもう一度、彼女の笑顔を――レオンが固く目を閉じた、その時だった。
「――あきらめないで、レオン!」
凛とした透き通る声が、死と爆音の蔓延する空間を突いた。
直後、排気ダクトの格子金属が外側から破砕され、滑り込むようにして小柄な影がレオンとネメシスの間に割り込んだ。薄緑色の制服、背中で揺れる鮮やかなピンク色の髪と短く結ばれたポニーテール。
「……リア!?」
信じられない光景だった。ごく普通の少女であるはずのリアが、迷いのない動作で手にしたパルス発生装置を床へ叩きつけていた。
青白い電磁波が周囲へ放射され、位相のずれていたネメシスの動きが一瞬だけ不自然に硬直する。
「走って!」
リアが手にした解除ピンをレオンの手錠へ強引に突き刺し、ロックを弾き飛ばした。レオンの腕が自由になった瞬間、彼女はその小さく温かい手でレオンの手首を固く握りしめた。
「どうしてここに……! お前、一人でどうやって来んだよ!?」
「質問はあと! ここを離れないと、次の波が来るわ!」
ふたりは崩落する廊下へ向かって飛び出した。足元では床が亀裂を深め、赤色灯の歪む影の中で人々が逃げ惑っている。レオンはリアの手を力強く握り返した。幼い頃から幾度となく握ってきた、リアの柔らかい皮膚の温もり。
しかし――全力で非常階段を駆け下りながら、レオンの胸中に拭い去れない違和感が芽生えていた。
明滅する非常灯の赤い光が二人を照らすたび、前を走るリアの右腕が、肩の輪郭が、ノイズのように薄く不透明に揺らいでいたのだ。古い映像端末のホログラムが干渉を起こしたときのように、彼女の存在そのものが、現実の背景へ溶け込みかけている。
(なんなんだ……? 光の加減か……? 俺の目がおかしくなってるのか……?)
恐怖を打ち消すように、レオンは握り返す手に力を込めた。だが、強く握れば握るほど、その掌に残る手応えが、まるで密度のない気体を掴んでいるかのように頼りなく薄れていくのを、レオンの神経は冷酷なまでに察知していた。
◇
エリシュオン中央管制室。
数百枚の壁面ディスプレイが赤色の警報色に塗り潰され、凄惨な怒号と操作音が交錯していた。
『第五区画防衛線、突破されました!』
『ネメシス群の位相偏移率、三二パーセントを維持! 既存のアークフレーム部隊による実弾・光学兵器、すべて透過されています!』
『艦内被害、拡大中! このままでは十五分で中央動力炉へ到達します!』
「チッ……上層部が保身のために秘匿していたからこのざまだ!」
指揮壇に立つ全域防衛司令官が、血走った目でコンソールを叩きつける。
「広域DARSを直ちに全出力で起動しろ! エリシュオン全域の空間位相を力ずくでアンカーしろ!」
『しかし長官!』
操作員の一人が青ざめた顔で振り返る。
『全域DARSの強制同期は、未登録の局所位相や、不安定な高次元干渉波まで一括で排除・固定してしまいます! 艦内のインフラデータや未保護の特殊領域に決定的な損壊が寄与する恐れが――』
「構わん、艦全体がネメシスに食い尽くされるよりは遥かにマシだ! あの悪夢どもをこの3次元の地に繋ぎ止めろ! 実体を暴いて、殺せるようにするんだ!」
操作員の震える手で、キーが押し込まれた。
《DARS――広域同調シーケンス開始。高次元固定波、出力を最大へ》
重厚なシステムアナウンスが響き渡ると同時に、方舟エリシュオンの全構造体に、目に見えない絶対的な法則のような波長が広がっていった。
◇
「ぐっ……!?」
地下連絡通路を駆け抜けていたレオンは、頭部を強打されたかのような激しい眩暈に見舞われ、その場に膝をついた。
世界全体の「密度」が不自然に変質したような感触。空気は重く重密になり、壁の金属光沢や足元の床の質感が、気味が悪いほど鮮明に意識へと押し寄せてくる。
同時に、数層上のエリアから激しい砲撃音と勝利の叫びが木砲のように重なって届いた。
『効いてる! ネメシスに質量がついたぞ! 砲兵隊、叩き込めぇッ!』
DARSが作動したのだ。半ば位相のずれた幽霊のように存在していた敵の体が現実の位相へピン留めされ、人類の火器が通用する領域へ引きずり降ろされた。
「やった……これで、助かるのか……」
荒い息を吐きながら、レオンは顔を上げた。
「……リア?」
返事はなかった。
レオンの数歩先で、リアは足を止め、呆然と自分の両手を見つめていた。
その体から、透き通るような蒼白い光の粒子が、まるで夜空の星屑のように淡く溢れ出していた。
「な……んだよ、それ……」
レオンの声が引きつる。
リアの体が、つま先から、指先から、ゆっくりと透明へ変質していっていた。制服の質感も、豊かなピンク色の髪も、透き通るような肌の色彩も、水面に落ちた絵の具が洗われていくように薄れ、美しい光の塵となって大気中へ解けていく。
「リア! リアっ!」
レオンは弾かれたように立ち上がり、彼女の肩を掴もうと両手を伸ばした。
だが――レオンの手は、何の抵抗も質感もなく、リアの身体をすんなりと擦り抜けた。
冷たさすら感じない。ただ空気を切った感覚だけが手元に残る。
「嘘だろ……? 触れない……? なんでだよ! さっきまで、お前の手を握ってたじゃないか! リア!」
何度も、何度も、なりふり構わず手を振りかざす。しかし、レオンの指先が捉えるのは、虚空で儚く揺れて消えていく蒼い光の微粒子だけだった。
「……ごめんね、レオン」
リアがゆっくりと振り返った。
その澄んだ金色の瞳は、胸が痛むほど穏やかで、そして悲しいほど温かくレオンを見つめていた。
彼女の顔の右側も、すでに光のノイズに侵食され、輪郭が揺らいでいる。
「DARSが……エリシュオンの広域空間固定が始まっちゃった。これでネメシスは倒せるようになるけれど……『私』をこの世界に繋ぎ止めていた、パパの特別なおまじないも……解けちゃうの」
「何を……何を言ってるんだよリア! 冗談だろ!? お前はそこにいるじゃないか! 俺の幼馴染で、リア・ミークスで――」
「私ね、レオン」
リアは寂しそうに目を細め、静かに自分の胸元へ手を当てた。そこにはもう、肉体が奏でる脈動はなく、ただ淡く明滅する核のような青い光が存在しているだけだった。
「十二年前に……本当は、死んでいるの」
世界からすべての音が消え去ったかのように、レオンの思考が停止した。
「十二年前のあの日、研究所の事故で……私の本当の体は失われたわ。でも、パパ……ジルニ博士はあきらめなかった。私の記憶、私の波形、私の魂のデータをすくい上げて……DARSの仕組みを使って、エリシュオンの街の中に『リア』という存在を固定し続けたの」
「デ、データ……? 死んでる……? そんなの……そんな出鱈目、信じられるかよ!」
レオンは激しく頭を振り、叫んだ。溢れ出た涙が視界を歪ませる。
「じゃあ俺たちが過ごしてきたあの時間は何なんだよ! 一緒に食べた朝食は!? 馬鹿みたいに笑い合った毎日は!? いつか一緒に宇宙を見に行こうって決めたあの約束は……! 全部、偽物の幻だったって言うのかよ!!」
「偽物じゃないよ」
リアの透き通る声が、レオンの荒んだ心へと優しく染み渡っていく。
「レオンが私を呼んでくれた声も。一緒に笑った時間も。繋いだ手の温もりも……私にとっては、全部、全部本物だった。私がこうして『リア』として生きていられたのは、あなたが私を人間として、一人の女の子として見つめ続けてくれたからだよ」
「リア……っ、嫌だ……行くな! 消えないでくれ頼むから!」
レオンはなりふり構わず、光の粒子と化していく彼女の体へしがみつこうとした。しかし、レオンの体は空を切り、勢い余って冷たい金属の床へ激しく叩きつけられるだけだった。
「レオン……聞いて」
頭上から、消え入りそうなリアの声が降り注ぐ。
彼女の腰から下はすでに完全に光となって失われ、空中へとなびく光の帯へと変貌していた。
「私は完全に消えるわけじゃないの。パパの研究の奥……あそこにある『エルシード』の中に、私のデータは眠っている。……ただ、この体であなたの隣に歩くことが、もうできなくなるだけ」
「リア……!」
「お願い、レオン。生きて……」
光の輪郭となったリアが、最後にゆっくりと屈み込み、レオンの頬へ手を添えた。触れられないはずの指先から、なぜかかすかな温もりのような錯覚が、レオンの肌へと伝わった。
「私を……見つけて」
「リア――っ!!」
レオンの悲痛な叫びが、虚ろな通路に悲しく響き渡る。
次の瞬間、眩い蒼の光が弾け――ピンク色の髪の少女は、一筋の光の風となって、暗い通路の天井へと溶けるように消え去った。
あとに残されたのは、崩落の粉塵と、壁面で虚しく回転を続ける赤色灯の明滅だけだった。
「あ……あ……」
レオンは床に突伏したまま、自分の両手をじっと見つめた。
そこには何の感触も残っていない。何年間も、何千回も握りしめてきたはずの少女の柔らかい温もりは、どこにも存在しなかった。
「うああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
レオンは拳を床へ叩きつけた。爪が皮膚を破り、血が滲む。しかし、そんな身体の痛みなど、胸を根どころか心臓ごと抉り取られたような激痛に比べれば、何の意味もなさないものだった。
守れなかった。
自分の無力さのせいで。何も知らずに能天気に宇宙を夢見ていた自分の愚かさのせいで。
しかし――絶望の底で、涙に濡れたレオンの瞳の奥に、猛烈な執念の火が灯った。
『私を見つけて』
彼女は確かにそう言った。
消滅したのではない。諦めたのではない。「私を見つけて」と、彼女は未来を、自分の命の欠片をレオンへ託したのだ。
「取り戻す……」
レオンは血の滲む拳を固く握り締め、ゆっくりと顔を上げた。
「絶対に……俺が、お前を取り戻す……! リアッ!!」
◇
同時刻。エリシュオン下層区画の崩落が進行する通路を、二人の影が静歩していた。
重厚な黒い軍服を纏い、無機質な鉄仮面で顔を隠した男――ヴァイス。
その背後を、足取りも危うく追う白髪の少女――ノエル。
ノエルは歩みを止め、崩壊したビル群から立ち上る黒煙と、逃げ惑う人々の悲鳴を無感情な瞳で見つめていた。
「人が……たくさん倒れてる」
「ネメシスの侵攻による必然の結果だ」
ヴァイスは振り返ることもなく、冷淡に応じる。
「倒れて……動かなくなる。あれが『死ぬ』ということ?」
「そうだ。肉体の活動が停止し、不可逆の腐敗へと至るプロセスだ」
「どうして泣いているの? あそこにいる人たちは」
ノエルが指差す先では、倒れた家族の身体を抱きしめ、叫び続けている女性の姿があった。
「失いたくないものを失ったからだ。人間という種族は、生への執着と他者との関係性に依存して精神を維持している。それが破綻したとき、あのような不条理な行動をとる」
「失うのが嫌なら……最初から持たなければいいのに」
ノエルの呟きに、ヴァイスは歩みを僅かに緩め、鉄仮面の裏側から冷徹な視線を投げかけた。
「お前にはまだ理解できないか。感情とは有機体特有のバグのようなものだ。……だが、時としてそれが想像以上の出力を生むこともある」
そのとき、前方の一画が歪み、実体化したネメシスが二体、鋭い脚を鳴らして闇から躍り出てきた。結晶の鎌がヴァイスの首元へと迫る。
ヴァイスは眉ひとつ動かさず、ただ右手を水平に横へ払った。
音はなかった。破壊の爆音も、金属が削れる高周波音すら存在しない。
ただ、ネメシス二体の胴体中央から一メートルほどの空間が、まるで最初からそこに何も存在していなかったかのように削り取られ、消失した。上下に分断された異形は、そのまま汚濁した体液を撒き散らして床へ崩れ落ちた。
切断面には焦げ痕すら残っていない。
ノエルの目がわずかに丸くなる。
「強いのね、あなた」
「強いかどうかは俺が決めることではない。それより方舟が完全に沈む前に、回収すべき物がある」
ヴァイスは破砕された瓦礫を踏み越え、暗闇の中へと姿を消していく。ノエルはその黒い背中に引き寄せられるように、無言で後を追った。




