4話 眠れる戦騎
巨大方舟エリシュオンは、もはや都市としての姿を留めていなかった。
赤く光る警告灯。
破裂した配管から噴き出す高圧蒸気。
火災によって朱色に染まった通路。
そして、壊れゆく構造体を軋ませる不気味な震動とともに、遠方から響くネメシスの異様な咆哮。
それでもエリシュオンは、かろうじて航行を続けていた。
かつて頭上を照らしていた人工太陽は消失し、青かった空は漆黒の闇へと沈み、街路の照明だけが崩壊しつつある街並みを虚しく照らしている。
その下を――一人の男が静かに歩いていた。
重厚な黒い軍服を纏い、顔を無機質な鉄仮面で覆った男――ヴァイス。
その隣には、揺れる白髪と無感情な瞳をたたえた少女ノエルがいる。
「ここ?」
「ああ」
ノエルが尋ね、ヴァイスが短く答えた。
二人の目の前には、巨大な防爆扉が立ち塞がっていた。破砕された金属の表面には、かつての栄光の残骸のように【星杯機構研究所】という文字が掠れて残されている。
「研究所……」
「入るぞ」
ヴァイスが手を伸ばし認証パネルに触れるが、無機質な警告音が響き渡った。
《アクセス拒否》
「どうするの?」
「問題ない」
ヴァイスが右手を水平に払うと、低い空間の歪みのような音が響いた。
次の瞬間、扉の一部がまるで紙を切り抜いたかのように消失した。破壊の爆音も、金属が削れる高周波音すら生じない。ただそこに存在していた空間そのものが削ぎ落とされた光景に、ノエルは目を見開く。
二人は足音もなく、静かに研究所へ足を踏み入れた。
内部は異様な様相を呈していた。
無残に倒壊した研究設備、明滅するモニター、床に散乱する大量の記憶媒体、不気味な青い液体を吐き出して割れた培養槽、そして壁一面に張り巡らされたケーブル群。
「誰かいる」
ノエルが呟いた奥から、一人の男が足をもつれさせながら姿を現した。
白衣は血と機械油で黒く汚れ、髪は乱れ、目の下には濃い隈が刻まれている。手には古びた情報端末を死体のような固着力で抱え込んでいた。
「……なんだ」
男が掠れた声で呟き、ヴァイスが応じる。
「久しぶりだな、ジルニ」
その名を聞いた瞬間、男――ジルニ博士の表情が一変した。
「お前が……ここへ……」
「研究データを渡せ」
「嫌だ」
即答だった。ジルニは端末を強く抱きしめる。
「これは渡せない……誰にも渡してたまるか!」
「なぜだ」
「リアのためだ!」
ヴァイスの動きが微かに止まった。
「俺は……あの子を死なせてなどいない!」
ジルニは狂気じみた笑みを浮かべ、血走った目で虚空を睨みつけた。
「そうだ。まだ生きている。このデータがあれば、戻せる……! 身体など必要ない。魂さえ残っていればいい。DARSシステムだけでは不十分だ。さらに強く、深く……リアをこの世界へ――もう一度――!」
その声には科学者としての理性はなく、残されていたのは喪失が生み出した凄惨な執念だけだった。
「ふむ……お前は昔からそうだったか? 合理的で、仲間のために研究していた。こんな浅ましい顔はしていなかった」
「お前が知らないだけだ! 俺はすべてを捨てたんだよ! リアを生かすために! 国家も、研究も、自分自身も!」
その直後、ジルニの足元ががくりと崩れ、膝をついた。衣服の下から激しい血吐きとともに濃密な鮮血が流れ出す。
「ネメシスにやられたか」
「……もう、長くない……」
「放っておいても死ぬ」
ノエルが傷を確認し、ヴァイスが冷酷に呟く。ジルニはなおも端末を握りしめたまま「渡さない」と掠れた声を上げた。
「昔のよしみだ。これ以上、苦しむ必要はない」
黒い光が一瞬、走った。
ジルニの身体が静かに崩れ落ちる。
「……殺したんですか」
「もう助からなかった。せめて苦痛を終わらせただけだ」
ヴァイスはジルニの端末を拾い上げ、転送されたデータを確認する。
《ASTRAL REACTOR》
《DARS》
《ELYSEED》
「……これか」
データを自らの端末へ転送する間、研究所の最奥――第ゼロ格納庫の方向から重厚な低周波の駆動音が空気を震わせ始めた。ノエルが振り返るが、ヴァイスは一瞥もくれず立ち去る。
二人が脱出ポッドへと向かう通路でネメシスを排除しながら進む中、ノエルが尋ねた。
「さっきの人、知り合いだったの?」
「ああ」
「昔は仲が良かった?」
「……昔はな。今は知らん。ここに来たときは、俺の知ってる奴ではなかった」
脱出ポッドの扉が閉まり、ヴァイスは持ち帰ったデータを静かに見つめていた。
同時刻――第ゼロ格納庫。
「……っ!? リア……なのか……!?」
血と粉塵に塗れながら第ゼロ格納庫へ駆け込み、目の前に佇む白銀の巨躯『エルシード』を見上げて、レオンは震える声を漏らした。
胸部リアクターの放つ鮮やかな蒼い光。その輝きの中から、薄い光の粒子で彩られたひとつの姿が浮かび上がっていた。
鮮やかなピンク色の髪。それを後ろで短く結んだポニーテールが、揺らめく光の中で跳ねている。
通路で消滅したはずの幼馴染――リアが、そこにはいた。
『うん……私だよ、レオン。……待っていたよ』
愛おしそうに目を細めるリア。その声音は、聞き慣れた温もりを残しながらも、巨大な機甲のシステム全体と溶け合った深い響きを伴っていた。
『私を……見つけてくれたんだね』
「リア……お前、なんで……! 体は……!」
『説明はあと。乗って、レオン。この機体に』
リアの手が差し出される。触れることは叶わない光の手足。しかし、その瞳には強い意志が宿っていた。
「俺が……? でも、俺は実戦機なんて――」
『大丈夫。私がついてる。基本操作も全部サポートするから』
コックピットの滑らかな装甲が開かれ、搭乗ステップが足元へ展開された。
レオンは息を呑み、血に濡れた拳を握り締めると、迷いを振り払うようにステップを駆け上がった。
シートへ身を沈めた瞬間、装甲が密閉され、周囲全方位に外部の光景が映し出される。
『パイロット接続。神経インターフェース、起動』
背脊を激しい電撃が駆け抜けた。
「ぐああぁぁぁッ!?」
『同調開始』
視界が白く塗り潰され、見知らぬ記憶の奔流が脳内へ直接叩き込まれる。
雲ひとつない青い空。白い壁の研究室。誰かの笑い声。そして、崩落する施設の中で泣き叫ぶ少女と、凄絶な怒号。
「な、なんだ……これ……! 俺の頭に……何が流れてきて――!」
『波形同調中。数値を固定します』
リアの声が、思考の深層へ直接届く。
「止めろ……っ! 頭が割れそうだ!」
『ごめんね、レオン。でも、今はこの力を借りないと……!』
視界の隅で蒼い数値が急速に跳ね上がっていく。
《同調率:32%》
《同調率:47%》
《同調率:61%》
数値が上がるたび、胸の奥が押し潰されるような圧迫感に包まれた。自分という存在の輪郭が薄れ、エルシードという巨躯と、リアの意識そのものが混ざり合っていく感覚。
「リア……俺は……」
『怖い?』
「ああ……怖いよ! 自分が自分でなくなるみたいで……!」
『私も怖かった』
「……え?」
『この機体の中で……ずっと一人だったから』
光の粒子となって揺れるピンク色のポニーテール。リアは切なく、しかし温かく微笑んでいた。
『でも、レオンが来てくれた。だからもう、怖くないよ』
「リア……! 俺は、お前を助けに来たんだ……! こんなところで終わってたまるかよッ!」
レオンは歯を食いしばり、眼前にある操縦桿を力任せに握りしめた。
その瞬間、白銀の巨躯の指が、完全に同期して鋼鉄の拳を強く握り込む。
ドゴォォォンッ!!
格納庫の防爆壁が外側から猛烈な勢いで引き裂かれた。
赤黒い歪んだ装甲、異様に長い四肢、複数の光る眼。巨大なネメシスが咆哮を上げ、瓦礫を破砕しながら踏み込んでくる。
《敵性反応確認――ネメシス接近》
「来たか……!」
『レオン』
リアが静かに、だが強い信頼を込めて言った。
『あれを止めて』
「俺にできるのか……!?」
『できるよ。だって――エルシードが、あなたを選んだんだから!』
数値が限界を突破して跳ね上がった。
《同調率:78%》
《同調率:89%》
《同調率:100%》
《パイロット認証完了――レオン・アークライトを正式登録》
グォォォォンッ!!
エルシードの胸部リアクターが目眩く蒼い光を放った。白と青の装甲を澄んだ粒子が包み込み、背部の可変翼が大きく羽ばたくように展開して激しい風圧を巻き起こす。
ネメシスが猛然と咆哮し、鎌状の巨大な爪を叩き降ろしてきた。
「リアッ!」
『了解! アストラルリアクター、全出力開放!』
ズガンッ!!
初めての操縦のはずだった。しかし、レオンの意志は思考の速さで機体へ伝わっていた。
エルシードは凄まじい踏み込みで一歩前進し、振り下ろされたネメシスの巨爪を、左腕の装甲で寸分違わず受け止めた。
「……止めた!?」
足元のコンクリートが粉々に砕け散るが、白銀の機体は微動だにしない。
『機体出力、正常値。武装シークエンスへ移行』
全天周ディスプレイに輝く武装リスト。その中で、ひとつの名前が圧倒的な光を放っていた。
《光剣エルシード・ブレイカー》
「これだ……!」
『使用申請を確認。高次元光素子、集束開始!』
エルシードの右腕に莫大な量の蒼い光が集まり、長大な光芒の剣が形成された。刃の周りを古代の文様のような光彩が舞う。
ネメシスが危機感を察知し、さらに激しく咆哮して押し潰そうと身を乗り出してきた。
「うおおおおおおおあぁぁぁッ!!」
レオンの叫びとともに、エルシードが地を蹴った。
白い機体が蒼い残光の尾を引いて跳躍する。
すれ違いざま――一閃。
光剣がネメシスの胸部核を完璧に切り裂いた。
赤黒い装甲が内側から崩壊し、黒いノイズの霧を吐き出しながら、ネメシスは断末魔とともに虚空へ消滅していった。
静寂が戻る。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
レオンは荒い息を吐きながら、シートに深く背を預けた。自分の手を見る。機体の指もまた、連動してかすかに震えていた。
「倒した……のか……? 俺が……?」
『敵性反応、完全消滅。……すごかったよ、レオン!』
コックピットの傍らで、ピンク色のポニーテールを揺らしながら、リアの光の姿が弾けるような笑顔を見せた。
「リア……本当に、お前がこの機体の中にいるんだな」
『うん。私はもう身体を持てないけれど……このエルシードを通じて、あなたの力になれる。一緒に行こう、レオン』
その時、エルシードの全天周モニターの隅に、離脱していくひとつの影がキャッチされた。
《未確認機体、高速離脱中―》
「誰だ……?」
レオンが息をのむ。
◇
遠ざかる黒い脱出ポッドの内部。
手元の端末に灯った『エルシード起動』の反応を見つめ、ヴァイスは鉄仮面の奥で静かに目を細めた。
「目覚めたか」
「どういうこと?」
ノエルが尋ねる。
「いずれわかる。かつて、そうなるはずだった男が……ついに機鋼を呼び覚ました」
脱出ポッドが推進スラスターの光を吹き出し、崩壊していくエリシュオンの闇を抜けて、深い宇宙へと飛び出していく。
その遥か後方、崩れゆく方舟の暗闇の中で
ピンクの髪の少女の意志を宿した白銀の機鋼エルシードは、蒼い光を湛えて静かに立ち上がっていた。




