己の信念
結局、その日は大きな動きはなかった。
時間だけが、妙に長く流れていく。
■ 午後
ロビーから少し離れた廊下。
「なぁ」
声をかけられる。
正義の男だった。
「少し付き合え」
断る理由もなく、ついていく。
連れて行かれたのは、少し広い空間だった。
何もない。
「ここなら動ける」
そう言って、軽く肩を回す。
「……またやるのか」
「当たり前だ」
腕立てを始める。
「身体が鈍るのは許せない」
一定のリズム。
無駄がない。
「お前はやらないのか」
「……いい」
「そうか」
興味なさそうに返す。
しばらく無言。
回数だけが積み重なる。
「……なぁ」
正義の男が言う。
「お前はどう思う」
「何が」
「人を殺すことだ」
動きは止めないまま。
「絶対に悪だと思うか」
少し考える。
「……普通はそう思う」
「普通、か」
小さく笑う。
「俺は違う」
動きが止まる。
「“悪だから許さない”んじゃない」
こちらを見る。
「俺が許さないから、悪なんだ」
強い言葉だった。
「……それって」
「主観だな」
自分で言い切る。
「でも、それでいい」
立ち上がる。
「じゃないと、迷う」
タオルで汗を拭く。
「迷った瞬間に、人は死ぬ」
その言葉は、妙に現実的だった。
■ 夕方
ロビーに戻ると、神父がいた。
椅子に座っている。
「少し、いいですか」
こちらを見る。
頷く。
「あなたは、信じるものはありますか」
唐突だった。
「……特にない」
「そうですか」
穏やかに頷く。
「では、今は何を支えにしていますか」
言葉に詰まる。
少し考えて——
「……あいつ、かな」
幼馴染の方を見る。
「なるほど」
神父は少しだけ微笑む。
「それも一つの“信仰”です」
「……信仰?」
「ええ」
ゆっくりと言う。
「人は何かに縋らないと、立っていられません」
「神であれ、人であれ」
「あるいは——自分自身であれ」
静かな声だった。
「じゃあ神父は」
「神を信じているのか?」
「はい」
即答だった。
「疑わないのか」
「疑いますよ」
あっさり言う。
「でも、疑っても信じると決めています」
矛盾しているようで、していない。
「……それって」
「選択です」
言い切る。
「信じるかどうかは、最後は意思ですから」
納得はできない。
でも、否定もできない。
■ 夜(風呂)
施設には風呂もあった。
誰かが見つけたらしい。
「一応、時間ずらして使おうって話になったから」
姉御が言う。
今は——男側の時間だった。
中に入る。
湯気。
普通の浴場だった。
「……なんか」
思わず呟く。
「普通だな」
「それが一番気味が悪い」
声の主は——探偵だった。
すでに湯に浸かっている。
「どういう意味だ」
「ここは異常な状況だ」
「なのに環境だけが“普通”すぎる」
水面を軽く見る。
「違和感を消すための演出かもしれない」
「……考えすぎじゃないか」
「かもな」
あっさり引く。
しばらく無言。
水音だけが響く。
「なぁ」
探偵が言う。
「お前、自分のことをどこまで把握している」
「……どういう意味だ」
「記憶だ」
視線を向ける。
「昨日のこと、細かく思い出せるか」
一瞬、考える。
「……全部は無理だな」
「だろうな」
納得したように頷く。
「人間の記憶は曖昧だ」
「だが——」
少しだけ間を置く。
「“曖昧すぎる”場合もある」
その言葉が、妙に残る。
「……例えば」
「いや」
首を振る。
「今はいい」
それ以上は言わなかった。
湯気の中で、表情はよく見えない。
でも——
何かを考えているのは分かった。
■ 就寝前
部屋に戻る。
静かだ。
さっきまでの会話が、頭に残っている。
正義。
信仰。
疑い。
全部が混ざる。
「……疲れた」
ベッドに倒れる。
その時。
「ねぇ」
幼馴染の声。
「今日さ、楽しかった?」
「……は?」
「だってさ、色んな人と話せたじゃん」
笑っている。
「……こんな状況で?」
「だからだよ」
あっさり言う。
「普通じゃないから、面白い」
その言葉に——
少しだけ、違和感。
「……お前」
「ん?」
「変わってるな」
「よく言われる」
気にしていない。
そのまま、電気が落ちる。
暗闇。
目を閉じる。
静かだ。
でも——
どこかで、何かがズレている。
そんな気がした。
その違和感の正体を——
まだ、知らない。




